東京物語

三宅香帆のブログです。日々の感想やレビューなど。感想は基本的にネタバレ含むのでご注意を。

そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ

このブログのコンセプトは「京都の学生生活おすそわけ♡」なはずなのだが、そろそろ本筋から外れすぎてあかんと思う今日この頃である。なんじゃ前回の文章のセブンルールて。自分でつっこむわ。いや書いてて楽しかったからいいんやけど。

しかし京大について語るにしても、いかに京大生が世間のプレッシャーと期待と己の自己像に溺れて変人のフリをしたがっているか、とか、いかに京大男子に新海誠君の名は。ではない、秒速五センチメートルのほうだ)好きが多いか、とか、そもそも京大男子を知りたければ逃げ恥を読めばすべて事足りる、とか、まぁ、そういう話をしようかなとぼんやり考えて……いたのだが……そんな京大生の生態をみんな読みたいかしら……とちょっと謎と不安にかられてしまった。いやどうなんですかね。

というわけで京大から微妙に外れた京都話をする。のだけど、今日いいたいことといえば、もうタイトルですべてである。

 

そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ。

 

以上、終了。でもいいんだけど。

いやちょっとお姉さん、思いません? そろそろ欲しくないか、京都アンソロジー



私は「京都」をひとつのジャンルである、と思っている。

SFとかミステリとかそういうものと並んで、日本人(世界にも、なのか?)の中には「京都」というジャンルが存在しているのである。小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、京都が出てくれば、それはただのご当地ものでもなく、「京都モノ」になる。

京都を無駄に使うことなどほぼ許されない。それはミステリの皮をかぶるならば謎解きをしろ、という引力と同じ類いのものであるように見えるのだ。

たとえそこに舞妓さんや清水寺が出てこなかったとしても、京都が物語に出てきた場合、京都の空気がそこになくてはならない。

やっぱりみんなの中に、京都というだけでそこに内包されるイメージがあって、そのイメージはなかなかどうして明瞭なのだ。京都在住です、と県外でいえば大抵「わー京都か、いいねえ」と言ってもらえるくらい、京都はみんなの心象風景の中に根付いている。ちなみに私は高知出身だが「高知、いいねえ」と言われる回数は5回に1回くらいである(そのほとんどが龍馬とお酒とイケダハヤトさんの功績である)。

ちなみに京都ほどのジャンルになり得る土地は、あと日本では北海道くらいだろうか。北海道文学というのは案外存在していると私は見ている(三浦綾子も『Love Letter』も動物のお医者さんもそうだ)。

で、SFもミステリもしばしばアンソロジーが組まれるのに、京都は案外まとめられたことが少ない。なぜなんだ。こんなにみんな京都が好きなのに。

 

 

というわけで、どなたかつくってください、京都小説アンソロジー。読みたい。

ぜーったいに京都の安易なイメージにのっからず、それでいて京都だなぁと思う空気感があり、「おお、これも京都」みたいな意外性があるものがいいな。

斎藤美奈子の『妊娠小説』みたいにむしろ『京都小説』で一冊批評本を書いてもらってもよろしい。うん、むしろそっちのが面白そう。

たとえば『ノルウェイの森』はまぎれもない「京都小説」だと思うし(阿美寮は京都になきゃいけない気がする、なんとなく)、入江敦彦の『イケズの構造』みたいな京都論ももっと読みたいし、野崎まどの『know』みたいな京都の精神ががつっとでた小説(個人的にはあーいうのが京都っぽさだと思う)ももっと知りたい。綿矢りさも京都っぽい作家さんだと思う、なんかこうあの手さばきの緻密さに反した「しれっと感」みたいなものが。森見登美彦万城目学がいかに京大生のイメージを変えたかってのもだれか今のうちにまとめといたほうがいいのでは。

 

ねぇ、ほら。なにとぞ。よろしくお願いしますよ。

 

 

イケズの構造 (新潮文庫)

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 京都論の傑作。

know (ハヤカワ文庫JA)

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 ふだんSFを読まない私も面白かった。おすすめ。

大学院生がアイドルから学んだ「読んでて楽しい文章」を書くためのセブンルール

ネットで文章を書き始めて、はや数年が経とうとしている。

ありがたいことにたくさんシェアしてもらえた記事があったり、

tenro-in.com

こちらの記事をもとに「本を書きませんか?」と出版社さんから言ってもらえたり、

人生を狂わす名著50

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 ある程度、日々たのしく文章を書き、読んでる方にもちょっとは楽しんで読んでもらえてる……のではないかと……思います(なんかこう書いてたら自信がなくなってきましたが!)。

 

で、私が文章を書き始めたのって、だいたい「女子アイドル鑑賞」にはまった時期とぴったり重なるんですよね。

ちなみにAKBグループおたくです、乃木坂も好き(最愛の松井玲奈ちゃんが卒業したりアイドルおたく人生にも色々ありましたが、語れば長くなるのでここでは割愛)。

私はたぶん誰よりもアイドルから文章の書き方を学んだんですが、この話を先日友達にしたら「それ面白いからブログとかに書きなよ」ってすすめられまして、なるほどこういうのをブログに書けばいーのか! と思い立ちました。はい、というわけで「私がアイドルから学んだ文章の書き方」というお話。

 

アイドル。それはひたすらに「歌やダンスの実力だけではないところで、観客に楽しんでもらうこと」を志向する方々。

つまり、私のよーな「文章の中身や技術だけではまだそんなに楽しんでもらえねぇ!」というような人間こそ、アイドルの真似をすべきなのでは、と思っているのです(逆に、文章の中身がものすごく情報として価値がある人は真似しなくてもいいと思う)。

ダンスのプロでも、歌のプロでもない。私たちは「みんなを楽しませること」のプロだ! と、アイドルの方々は言っているように見えます。

その技術をね、私は文章に応用してみたかったんです。

 

というわけで、セブンルール。*1

①書き手の表情がわかりやすいこと

②読み手をひとり決めること

③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること

④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること

⑤できるだけ短く書くこと

⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと

⑦愛があること♡

 

 

 

①書き手の表情がわかりやすいこと

喜怒哀楽がはっきり分かる子って、見てて楽しくないですか。

……はい今ちょっとこれ引かれる気がした。あかん。私の女の子の趣味紹介の場ではない。いやあのねっ、たとえば女の子がステージで踊ってるとき。その子の表情が一辺倒よりも、笑ったりちょっと切なそうになったり驚いた感じになったり、いろんな表情してたほうが、見てて楽しくないですか!?

それと同じで、私は、できるだけ「書いてる人の表情」が分かるような文章を書きたいんですよ!

今テンションが低いのか高いのか、怒ってるのか笑ってるのか。できるだけ無表情な文章を書きたくなくて。読んでる人が、書き手の声が聞こえるくらいの、表情豊かな文章が書くこと。を、目標に置いております。サイレントなマジョリティーは目が死んでるように見えちゃうからな!

 

②読み手をひとり決めること

アイドル文化を知って「おもしろ~~」と思ったのが、「レス」文化。これ何かと言うと、握手会などに頻繁に来て知ってるファンの人を、アイドルがステージ上から「やっほー! 見えてるよ!」って指さしたりウインクしたりしてレスポンスを返すんです。すごいよね、アイドルの記憶力……。でもこれ、ファンがテンション上がるの、わかる。「私に向かってウインクしてくれた!!」ってめちゃ喜ぶ。

で、まぁアイドルではない一般ピーポーにファンはいないのですが、文章を書くとき、脳内に「この人」って読み手をひとり決めてみるんです。要は、エア・ファンを脳内で製造する(あれ、そろそろまじで引かれそう、我ながらきもちわるい)。

この人、ってのは誰でもよくて。家族でも友人でも同僚でも恋人でも。あと私がよくやるのは「○○歳くらいの自分」。中学生の私に読んでもらう、と想定する。

そんで「この人に読んでもらう」って決めて、その人のためになりそうなこと、その人に言いたいこと、その人に楽しんでもらえそうなことを、書くんです。

実際に、その人に読んでもらわなくてもよくて。ある程度「こういう人に届けたいなー」というのがはっきりしてると、その人と同じような境遇の人にも、楽しんでもらえる気がします。これ、名づけて「アイドルはひとりにウインクしたつもりでも、その半径1メートルの周りのファンはみんな俺にウインクしてくれたと思う現象」。みなさん狙い撃ちしていきましょう(さらに引かれそうな発言)。

ま、まぁビジネスとかでいうとマーケットをちゃんと決めるとかそういう話ですね。

 

③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること

はい、問題です。ステージ上にいるアイドル、あるいはバラエティに出たアイドルが「カメラにたくさんうつる」ためにはどうしたらいいですか!? そう、キャッチーなことを言うあるいはキャッチーな表情(ウインクとか)をつくること!!! 売れてるアイドルってまじでこういうのうまいよね……指原さんとか。

というわけで、一般平民の我々も、文章でカメラにうつっていきましょう。

どういうことかと言いますと、SNSで拡散するときに、その言葉を抜き出してシェアしたくなる」言葉をちょっと入れるよう、鋭意努力するのです。

私もこれなかなかできないんですけどね……。どこが読み手の人に刺さるかわからないから、まだまだです。「あ、そこ抜き出すんだ!」みたいなこといっぱいある。しかしトライアル・アンド・エラーはしてみると楽しい。

キャッチーなタイトルとか、キャッチーな決め台詞(当社比)とか。ちょっと意識するとちがう、かも。私も修行中の身なので、もし何かコツがあれば教えてください……。

 

④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること

みんなと同じこと言うアイドルは、300人以上いるAKBグループの中じゃ目立てないぜ! 売れたアイドルはやっぱりみんなと違うことしてるぞ! すごいぞ!

というわけで、何を書くにしても、「すでに誰かが言ってそうなことを書く」ことはできるだけ避けたいな~~って思います。

ていうか、すでにどっかで読んだことあるもの読むの、まじで時間の無駄で苦痛じゃないですか。私は嫌だ。僕は嫌だ!

せっかく読んでくれている人に時間の無駄使いをしてほしくないので、できるだけ自分だけが言ってそうなこと書くことを、意識。

 

⑤できるだけ短く書くこと

これもまぁ、読んでくださってる方に時間の無駄をさせたくないぜ、と同じ話なんですが。

アイドルさんたちもね、やっぱり短くて的確なコメントをする力が、すごい。泣いててもコメント求められるし、怒っててもコメント求められる。なかでも売れてる子は、コメントがだらだら長くない。というか、みんな売れるに従って短くコメントするようになる。あーいうの、売れ出すとマネージャーさんとかが指導し始めるのかな。

私はほうっておくと文章が長くなってしまうので(今回も長くてすみません)、「できるだけ短く!」を心がけて、時間あるときはちゃんと削る。時間ないときはそのまま放り投げちゃいますけども。

 

⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと

やっぱり、「ステージ上で歌って踊るの楽しい~!」って言ってるアイドルが大好き~~~~~!!!!!!

……という話よりも(ちがうんかい)、まず書き手が書いてて楽しい~と思わないと、読んでもらってる方にも楽しんでもらえないんじゃないだろーか……。と、思います。

どんな題材でも、書いててなんか楽しくないな、という時はできあがったものも「うーん」と微妙なものが多くて。それって書いてる時に読んでる自分がノーサインを出すから楽しくないんじゃないかと。

書くことは基本的に楽しいので、やっぱり楽しんで書きたい、ですね。いつでもね。読んでる人も楽しんでもらえるとさいこーですね。

 

⑦愛があること♡

世界には愛しかないんだ……ではなく*2

これはもう個人的な信条なのですが、やっぱり、愛がない文章は世に出したらあかん、と思っているのです、自分に対して。ほかの人の文章がどうかはどうでもいいのだけど。

私の場合、読んでくださってる方とか、あとは何かについて書くときはその何かへの愛とか、まぁ、そういうのがない文章になると、わりとその時の自分しか楽しめない文章になるんですよね……はは……。ていうかあとで読んで「うげっこの文章消したい」ってなりそうで、嫌。自分が書いてすっきりしたいだけなら、公開しなくていいわけだし! 

アイドルさんたちを見ていると、あの若さで、ファンの人とか観客の人に愛をあげてる様子に、やっぱり感動しちゃうんですよ。私は。

好きな作家さんの文章読んでても、アイドルを見ていても、やっぱりそこで自分が愛をもらう気がするから、元気になるわけで。

というわけで、私もどうにか愛のある文章を書きたいですね。

まぁこれ未来の自分が読んだら青臭すぎて死にそうだけど! 知らない!

 

 

はい、というわけで、アイドルから文章の書き方を学んだ、マイ・文章・セブンルールでした。

昔読んだライターさんの文章に「文章を書くときのルールなんてのは、癖みたいなもんで、どや顔で語るべきではない」っておっしゃってて、まじでその通りだとは思うのですが、まぁ2018年現在持ってるポリシー、くらいに考えていただければ幸いです。

それにしてもアイドルさんたちはこれを生身の人間でやってるんだからほんとうにすごい。天才ばかりである。

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またしても卒業してしまった、愛するアイドル、みるきーさま。しぬほどかわいい。

*1:「セブンルール」はフジテレビの番組ですが、お知り合いのお姉さんがブログに書かれていて、ああいいな~と思ったのでした。とっても素敵なのでぜひ↓

www.oukakreuz.com

*2:今回書いてて気づいたんですが、欅坂46の曲ってめちゃくちゃ汎用性高いですね!? 秋元康の気合の入れっぷりがわかる。

立て看板のないきれいな大学になれてしまった

世間をお騒がせしながら(したのか?)大学から立て看板が撤去された。

www.asahi.com

そして現在、ぶっちゃけ、大学の周りがきれいになった。*1

 

正直な話、私は立て看板を立てたことも撤去したこともなく、特別な思い入れがあるかないかと言われればまぁないほうである。というか立て看板、撤去されるまでその存在を自明のものとして受け取っていたので、「そうか、そんなにじゃまなもんだったんか……」と改めて大学という場所をめぐる政治性に思いを馳せる、くらいの行動しかとっていない。

(というわけでここでも立て看板撤去問題についてあーだこーだ論じることはない。そういう話を期待している方は回れ右でお願い致します)

しかし今日になって気がついたことがある。

 

あ、わたし、立て看板のない大学、ふつうに、慣れてるわ。

 

 

サークルの宣伝や大学でのイベントから政治的なメッセージに至るまで、様々な主義主張を載せていた大学の立て看板。

基本的に春の新歓時期には、キャンパスを囲むようにところせましと並んでいる。春が過ぎても、そこに雑草が生えているのと同じような割合で、「ふつうに道にあるもの」として立て看板はあった。

他大学の友達が遊びに来たとき、大学への批判を書いた立て看板を見て「え、こんなんあるのこわい」と笑っていた時にはじめて、「そうか、これはうちの大学特有のものなのか、まぁそらそうか」と認識した思い出がある。

だから、「立て看板撤去」と聞いた時、「へー、なんか風情がないなー」くらいしか思わなかった。

 

しかし今になって思い出すことがある。

高校生の時、母と一緒にはじめて京大に来た。その際、母が言った。

「なんか京大ってもっとビラとか散らばってて、めちゃくちゃ汚いイメージあったけど、きれいになったねぇ」

たしかにはじめて訪れた大学のキャンパスに、汚いイメージはなかった。

 

今思い返すと、きっとその汚いビラや看板は、時代とともに減っていった――というよりも、減らされていったんだろうな、と、思う。

 

 

清潔さは統制の中にある。街や場所がきれいになればなるほど、いろんな規則は増えるし自由は減ってゆく。

私はそれがいいことなのかわるいことなのか分からなくて、たまに、混乱する。

きれいなものうつくしいもの清潔なものがみんな好きで、私もまぁ好きで、それでいいんだけど、ならばそこからはみでるなにかはどこへ行くのか、と思う。

「きれいなもの」に慣れると、「きれいじゃないもの」をゆるせなくなる。

「立て看板くらいあってもいーじゃないか」と笑う人がいて、正直私もそう思うのだけど(だってあの立て看板を見て「大学を倒そう! 社会を倒そう!」と思った人が何人いたのだろう?)、けど、立て看板くらいも、ゆるせないんだろう。もはや。

所詮立て看板だのなんだの京大生というエリートの遊びだろと思うのだが、それすらゆるされなくなってくのだな、という緩慢とした諦念をいだく。

だってきれいじゃないから。

 

きれいじゃないものは見ないでいいよ、と言われることに慣れていく。

不安は自由の眩暈だと言った人がいたけれど*2、誰かが不安をゆるせないから、自由はなくなってゆく。

不安はぐらぐらしていて、不安定で、秩序がなくて、きたなくて、どろどろしてて、何が飛び出すかわからない。

 

いいことなんかわるいことなんか分からんけど、そうやって私たちは統制されることに慣れてゆくし、まぁ、こうやってなにかに飼い慣らされてゆくのだなぁ、と、ぼんやりと食堂の海藻サラダを食べながら思う午後なのであった。

しかし今日は天気がいいな。

 

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*1:とくに正門あたりは「撤去通告書」しか貼られてなくて、京都市の自転車撤去後と同じ様相を呈している。

*2:キルケゴール先生です。まじ名言だよな

夏の下鴨神社はとにかく最高、すきすきだいすきちょうあいしてる

……ってのは舞城王太郎先生リスペクトな題名をつけたかっただけなのですが。すみません。*1 しかしちょうあいしてるかどうかはともかく、京都の観光地のなかで一番思い出深い場所、と聞かれたらなんだかんだ「下鴨神社かな……」と答える気がする。ちなみに一番好きな場所って聞かれたらまたほかにあるのだけど、それはまた別の時に。

下鴨神社に行くと思い出が多すぎてぜんぶの記憶がとろとろ溶けていってしまうので、「あれこれ何回生の時の記憶だっけな」と時間の位相がよく分からなくなる。題して下鴨神社の思い出、真夏のアイスクリームのごとし。とろとろっつーよりどろっどろに記憶が溶けている。たぶんそれは下鴨神社に行く機会が、京都の暑い暑い夏に多かったことにも所以するのだろう。

下鴨神社になんでこんなに思い出が多いのかといえば、大学からすぐ近くにあるのもあるし、下鴨神社は気軽にいけるイベントが多い、あと拝観料がかからない。最高。

京都に来る前は下鴨神社といえば『有頂天家族』のイメージしかなかったのだが、たぬきは結局いまだに一度も見たことがない。私たちの前に姿を現さないだけだろうか? それとも私が人間とたぬきが化けた人間を見分けられないだけなのか。

 

私は大学でふたつサークルに入っていて、ひとつが「京都の寺社仏閣を観光するだけ」という意識低いどころの話ではないのほほんとしたサークルだった。のほほんとしてるというか、例えば活動日にみんなで寺社仏閣に向かい、そして境内に入る前に「はいじゃあ十六時にもう一度ここ集合で~」と解散する(つまりはサークルで行くのに個人で各々観光する)、個人行動ラブもいいとこな団体だった。ふつうサークルで観光ってなったら皆でぞろぞろ行くもんだろう。*2上回生ともなれば「え、今日銀閣寺? 前に行ったしもういいや、それより哲学の道にあるカフェ行こうよ~」と、 観光せずに集合時間までカフェでだらだら喋る体たらくである。どゆこっちゃねん。しかしそんなマイペース・サークルに入るくらいなのでやたら変な先輩が多くて楽しかったなぁ……って過去形にするほど昔の話でもないのだが。これ美研の人読んでんのかな。

そんなサークル活動でいくつかある「リア充っぽい」イベントのひとつに、六月頃、「下鴨神社にいって蛍を見る」というものがあった。下鴨神社といえば「大量の蛍を川に放流する」時期があって、下鴨神社の境内の川に蛍があふれるほどにいる時期があるのだ。*3

蛍をちゃんと見る機会なんてたしかにそんなに多くなくて、案外「見よう」と思わなければ見えないものである。しかし京都の大学生はそれこそ銀閣寺近くの川辺やら下鴨神社やら、蛍を「見よう」と思ったらわりとすぐに見ることができる。

だけど実際によし蛍を見るぞと思って見てしまえば、結局「蛍だなぁ……」としか頭に浮かんでこない。枕草子もびっくり村上春樹*4もびっくりな情緒もカスもない「わー蛍だー」的な感想しか口から出てこない。ごめんな清少納言。今思い出してみても蛍の風景より蛍見ながら友達と喋ったことのほうがずっと記憶に残っている。ごめんな蛍。

けど、私は年に一度あるサークルの下鴨神社で蛍を見る会がわりと好きだった。それは蛍のおかげというわけではなく、ひとえに下鴨神社という場所のおかげである気がする。夜の下鴨神社というのは、入口から境内がずっと遠くて、糺の森に囲まれた暗い道を通ってゆく。一回生の時にはじめて行った夜の下鴨神社は、妙に雰囲気があって、「おお、私は京都に来たんだな」とちょっと感動した。

下鴨神社には、そういう、「いかにも京都じゃないけどやっぱりなんかこれが京都」みたいな雰囲気が、あって、好き。

 

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糺の森。夜とかけっこう雰囲気ある。ちなみに後ろ姿はサークルの同回生。後ろ姿だけどこんなとこに登場させてごめん! 事後報告!

 

 

七月になれば下鴨神社では「御手洗(みたらし)祭り」がある。あーこのお祭りほんとに京都で一番好きなんだよな。祇園祭よりもみんな御手洗祭りに来てくれ、と京都七年目の人間は思う。*5

御手洗祭りというのは、神社の境内にある池に足を膝まで浸しながら、みんなでろうそくを献灯する、というけったいなシチュエーションを楽しむことができる。七月といえど水はだいぶひんやりとしていて、まるで水飴の中を歩いているみたいな、変な気分になる。みんなで水の中を歩くというのはどうも幻想的というか異界じみてるというか、それこそたぬきが化けてたり妖怪のひとりやふたりいてもおかしくないような、そんなちょっと不思議な雰囲気がある。なんつーかな、千と千尋とかあんな感じ。いろんなものが混ざり合う感じ、山口昌男の本に出てきそうな感じ。楽しい。

 

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全体的に見にくくてすみません……。膝の下くらいまで浸ってるのが分かるでしょうか。毎年、着物デートしにいらしたお嬢さんたちがちょっと困ってるのもご愛嬌。



ちなみに下鴨神社には、源氏物語の歌が載ってるおみくじがあって、お祭りのついでに友達と引くと楽しい。私の友人は彼女とあれこれあって別れたばかりの時にそのおみくじを引き、見事六条御息所*6の歌を引き当てていた。友人はその歌を国文専修の私に見せて「なぁ三宅これどういう意味?」と聞いてきたが、「奥さんを呪い殺したメンヘラ美女の歌でさ……」とは言えず、なんと説明したものかと困り果てた。まぁそのまま説明しましたけれども。

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私のおみくじの写真が残っていた。おみくじの男性用は女性登場人物の歌、女性用は男性登場人物の歌が記載されている。

 

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それから八月になれば、どう考えても古本まつりでしょ。下鴨神社では毎年「下鴨神社納涼古本まつり」を開催してるのだけど、いやもうこれが暑い。本当に暑い。考えただけで汗が出そうなくらい暑い。なんせ八月の京都の野外である。『夜は短し歩けよ乙女』に先輩が乙女を追っかけ回した舞台として、この下鴨神社の古本まつりが出てくるのだが、「こんなに暑い中で欲しい本もないのに追い掛け回すなんて、本当に先輩は暇だったのだな……」と私ははじめて古本まつりへ行った時に思った。京都の夏は蒸し風呂もいいとこ、というかサウナに暖房扇風機かけてオーブントースターでじりじり焦がしました、みたいな「湿度も温度も高いってどういうこっちゃねん」とツッコミを入れたい暑さなのである。しかしそれに加えて神社。蚊が多い。もう一度言う。蚊が多い。大事なことだから太字にしてしまった。まぁ蚊が多いわ日射しは強いわ蒸されるわで三重苦どころの話ではないのだが、そこは古本まつり、やっぱり安くなってるいつもは手が出ないあれこれの本を手に入れるべく奔走しないわけにはいかない。海賊王になりたいワンピースよろしく本の山からじりじりとお宝を探すのである。しかもけっこういい本が売ってあったりして、やっぱりこの世は宝島。うん。これドラゴンボールか。まぁこういうふうにいい本が見つかるから、結局次の年も「暑い……」とげんなりしつつ行っちゃうのだよ。

 



去年の夏、いろいろとしんどいことが重なって心底疲れ果てていた時、夜ぶらぶら散歩をしていて、ふと下鴨神社に向かったことがある。ひとりで用もないのに下鴨神社に行ったのははじめてだったのだけど、夜の下鴨神社というのはやっぱり妙に暗くて静かで、ひとりでぼんやり歩くにはなかなかどうしてよき場所だった。夜だったから拝殿のとこには入れず、とりあえず引き返してきたのだけど、それまでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるしていた思考が、下鴨神社を歩いてるうちに、すとんと「まぁ、周りに感謝してがんばろう」という至極まっとうな結論に至ったのをよく覚えている。そしてなんとなくその時、私は下鴨神社という場所のことを信頼したのである。

信頼というのは普通は人に使う言葉であると思うのだけど、たまに「場所」に対しても私は信頼できるなと思う時がある。うまく言えないのだけど、この場所があればなんか大丈夫な気がする、みたいな場所のこと。もしかしたらたくさんの人に信頼される場所のことを人は「聖地」とか「神社」とかそういうふうに名付けるのかもしれない。

昔読んだ本で、エリアーデという人が「聖なる場所」ってのはこの世にあるし、それは「いろんなものが帰ってきて旅立ってく場所なのだ」みたいなことを言っていた。些か宗教的な話すぎて寺社仏閣だって友達と喋るために使うくらい俗的な人間にはちょっとよく意味がわからない、と思ったけれど、下鴨神社のことをそう呼ぶなら、なんとなく、わからないでもない。下鴨神社の思い出は線上にあるのじゃなくて、ぜんぶ混ざってしまう。みたいな話。うまく言えないけど。

 

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ともかく、夏の下鴨神社が私は好きである。蚊は多いし暑いけど、歩いてて楽しい場所。京都の観光地だと案外見過ごされがちなんだけど、私は好きなんですよ、ぜひ京都にいらした際はお立ち寄りください、という話でした。

 

今年ももうすこしすれば、夏がやってくるなぁ。今年の夏も、生きのびましょう。

 

 

 

*1:好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎講談社)、名作なのでみんな読んでくれ

*2:新歓で「あっこれそんなにリア充する感じのサークルじゃないや」と気づいた新入生はここらへんでリア充観光できる別の観光サークルに行く、という春の風物詩。しかし非リアと非リアが集まるとそこはリア充になるという法則のごとく、意外とサークル内恋愛は多かった。完全に余談だけど。

*3:蛍の茶会なんてものもある。茶会には行ったことないけれど。ほんとに放流された蛍はきれいです。もしこの時期に京都いらっしゃる際はぜひ。

kyototravel.info

*4:『蛍』という短編がある。あんまり知られてないけど、有名な『ノルウェイの森』の元ネタになった短編小説である。

*5:御手洗祭りの詳細はこちら。

*6:源氏物語に出てくる有名なメンヘラ美女。生霊で光源氏の奥さんを死なせるという稀有な念力を持った女。すごい。

世の中には「インプット」型と「攻略」型がおりまして(という名の受験勉強攻略法)

友人が「今年も死んだ目をした新入生が入って来たよ~」とにこにこして言っていた。死んだ目をした新入生。「まぁ四月の最初だけは死んだ目してるよ」と友人は笑う。

そりゃそうだ。友人は某予備校で塾講師をしていて、浪人生を主に教えている。

もうそんな時期か~受験生ははじまりの季節か~と、むかし塾講師をしていた大学院生は彼らのことをぼんやり思う。

受験勉強、めんどいよな。

 

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とある京都のチョコレート屋さんにいた猫。死んだ目をしてるけどかわええ。

 

じゅけんべんきょうという久しく離れた言葉を思い返すと、「自分の強みを理解しよう」という謎の教訓が垂れ流されていたことを思い出す。今気づいたけど就活でも同じこと言われてそうだな。受験勉強するなら、きちんと戦略を立てましょう。そのために自分の強みを知って伸ばしましょう。自分の弱みを知って鍛えましょう。そう教えられる。と思う。少なくとも私はそう教えられた。子育てとかも一緒かなあ? やったことないから知らんけど。

子育てはしてないものの、私はアルバイトで個別の塾講(一対一で教える塾の先生)をしていた経験がある。その時、気がついた。何かを教えたり習得させようと思えば、その子の「強み」を理解するよりももっと、その子の「楽しさ」を理解したほうがずっと早い、ということに。

 

そもそも、強みなんて人と比べればぽろんと崩れ落ちるものである。「強みなんかないもん何もできないもん……」みたいなモードに入ってしまえばすぐに弱る。何より中高生くらいだと「個人の機嫌やモチベーションの有無」みたいなびみょ~なとこにすぐ左右されてしまう。得意教科はあくまで相対的なものでしかないというか、まぁぶっちゃけ強みって当てにならなくないか!? と塾講師をしていた時まじで思った(っていうより自分が死ぬほど得意教科と苦手教科がはっきりしていた人間だったので、得意や苦手がはっきりしている子は塾講師なんかに教えられなくても、と思ってた)。

というわけで、「強み」よりも大事なもの。それは「楽しさ」のポイントである。「楽しさ」をどこに見出すか、ということ。

楽しさ。それは国語が好きとか数学が嫌いとかそういうことじゃなくて、もっと抽象的な話だ。

 

受験勉強という同じタスクをこなしていても、「インプット」が楽しいか、「攻略」が楽しいか。これって人によって、びっくりするくらい違う。

たとえばインプット型の子は、授業時間中の雑談が好きである。雑談っつってもあれね、たとえば「数学キライかもしれないけど、元々数学って哲学からできた科目なんだよ~~」とか「芥川龍之介は頭よさげに見えるけど、案外師匠の漱石が言ったことをまんまパクッてるんだよ~~」とかそういう話。ちょっと小ネタになりそうな雑談をすると、ぱっと目を輝かせて笑う。

たとえば攻略型の子を教える時は、ゲーム形式にするとか褒める回数を増やすとかそういうことをやると、すぐにテンションが上がる。ちょっと競争心盛り立てるとか煽るとかそういうことを織り交ぜたほうが、集中する。

 

だけど雑談を攻略型の子に話すと、「知らんがな、それよりはよ授業終わらせてくれ」って顔になる。如実。大人から見るとそういう子って「知的好奇心がない!」なんて言われることが多いけどそんなことはない。休憩時間にやりたいこともあるだろうし、効率悪いことが嫌いなだけだ。そもそも関係ない話、聞く理由が見つからないもんね。

反対に、ゲーム形式をインプット型の子にしても「なんでこんな茶番やってんだ……」みたいな白けた顔をし始める。「ええ、勝負……やだ……」と萎えた表情になる。子どもがみんなゲーム好きだなんて思うなよ、って気になるよね。わかる。

 

ほとんどの子はインプットも攻略も「程度によって」楽しいと感じるものだけど、その程度がどっちのほうが上かっていうのは、人によってだいぶ違う。

難しいのが、両者の断絶。自分にとっての快楽が相手にとっての快楽ではない、ということを結構みんな知らないことである。攻略型は「えっそれは負けるのが嫌なだけでしょ? 勝てばゲーム楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるし、インプット型は「えっそれは興味持ってないだけでしょ? 興味のある分野だったら楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるものである。

ああ、断絶。楽しいことは人によってちがうんだよばかやろう!

しかし実際知識を得て嬉しいという体験も勝って嬉しいという体験もコストを払うもので、そこに行きつくまでの体力や気力やモチベーションがある前提だ。どちらに対して「そんなコストを払ってまでやりたくねぇ」と思うか「コストなんて思わないよやりたいよっ」と思うか、その差でしかない。もっかい言うけど、楽しいことは人によってちがうんだよ……。

 

ちなみに東大には攻略型、京大はインプット型が多いなーという印象。*1

あとビジネス系はやたら攻略型の煽りが多い。みんな任天堂バンダイの回し者なのかな。

さっきも言ったけれど、大抵の人間は結局オール・オア・ナッシングじゃなくて、程度の問題*2なので、自分がだいたいどの程度の比率かな~と考えてみるのは、受験生じゃなくても楽しい。暇なときにおすすめ。身の回りの他人の比率考えるのはもっと楽しいし更におすすめです。

 

というわけで受験生が読んでくれてるかどうか分からんけど、塾の先生風にまとめると、受験勉強するうえで大事なのは、自分がどっち派か見極めることだよ! そしてインプット型は息抜きに勉強に関係ある本を読むとか、攻略型は時間はかったり友達と競ったりしてちょっとゲーム要素入れるとか、そういうの取り入れてなんとかのろのろやりきることだよ、というお話です。はい。がんばってね。飽きてきたら自分の中でゲーム要素(攻略型)と雑学遊び要素(インプット型)を入れ替えてみてね。

あと、一番大事なのはむやみに「ああ自分はどっちも楽しめないから受験勉強無理だ……」とか「ゆーて受験勉強ってインプット楽しめなきゃじゃん……」とか勝手に落ち込まないことです。先生困るからね! がんばって明るく楽しく一年間生き抜こ!! がんばって!! 応援してるよ!!

 

 

こっからは完全に余談なのですが、この「人は何に楽しさを覚えるのか?」表のマッピングというのは楽しいので暇な時におすすめです。好かれるのが楽しいor好きになるのが楽しい、とかね。*3

眼の前にいる人がどういう作業が本質的に好きな人かを考えるのも、それを分類してくのも楽しいので、いつかなんか表ができたらここで出そう。みなさんもおすすめの快楽分類対立軸があれば教えてくださーい。

*1:あくまで統計採った数が段違いに異なるので、ほんとにエビデンスのない印象論ですが。まぁどっちもいます。当然。

*2:ちなみに自分はインプット型、たぶん…だって負けるのは嫌だけど、勝ってもゲーム作成者の手のひらの上にいるかんじで腹立つし「だからどうした!」って言いたくなるんだもん……ってプライド高いとこういう大人になるのでよくないね。受験生のみんなはまっとうに素直な大人になってね。

*3:恋愛好きにも攻略型(落とすのが好き)とインプット型(異性を知るのが好き)ってのがいる気がするなぁ。世にいう恋愛好きのイメージは前者に偏ってる気もするけど。どうなんでしょう。

この春、文学部に入学したみなさん、おめでとう!

文学部に入学したみなさん、おめでとう!

就職がない*1だの社会不適合者が行くとこだのそこ出てなにすんのだの言われつつも文学部に入ってくれたあなたを、私は心から歓迎します! だって仲間が増えたんだもの! いい仲間かわるい仲間かは知らんけど! うれしい!

しかし文学部ってなんでこうも「文学部イズム」的な何かがあるんでしょうね。同胞意識、めちゃくちゃ強い。なんでだろうね。

私もたまに、文学部とは何だったのだろう? と、考える時があります。

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時計台の裏。今日行ったら新入生いっぱいでこわかった……。


京大の文学部図書館という場所は、文学部の校舎(文学部新館*2という)の地下にある。つまり文学部図書館に向かうには、必ずそこに至る階段を下る必要がある。

文学部新館の二階や三階で、階段の踊り場から地下の図書室のほうを見下ろそうとすると気づく。そこにネット網が張ってあることを。

ある時、先輩から「あれ、自殺予防の網らしいよ」と聞いたことがある。

分からなくもない。階段の踊り場からぼんやり図書室のほうを見下ろしていると、すぅっと吸い込まれそうに落ちてゆきたくなるの、ちょっと分かる。

 

 

そんな与太話はおいといて、文学部の先生*3のブログに、こういう記事がある。

chez-nous.typepad.jp

 

文学部イズムというものがあるとすればーーなんかこんな恥ずかしい言い方すると文学部の方々に白い目で見られそうだけれどーー「絶望」がちゃんとここにあるという希望、のことだと思う。

 

そもそも、人生とか人類とか世界というのはどうしようもないものである。

まじどうしようもない。キリスト様が原罪を説いたのはさもありなんという話で、人生の年月を経れば経るほど、人間は思ってたよりよろしくない存在だなぁということに気づく。もちろん自分も。人間も私もバカだしアホだし、大人になってもたいして成熟しない、あるいは成熟しようとしない。自分にデメリットがあればそこには目をつぶる。

でも、そういうもんだよな、とも思う。うっすらと私は諦める。人間も私もどうしようもないもんなんだ。しゃーない。

しかしなぜか社会は諦めない。成長を遂げ、だれかに勝ち、恋をして、子供をつくり、人とわかり合うことで、あなたの人生はすばらしいものになる、と社会は言う。たとえ幻想だとしても、諦めないようにしようぜ。そう語る言説に社会は満ちている。

躁状態にしてもひどいよなァと私は思う。ほんまかいなという希望ばかりが電車広告に踊る。まぁ気持ちはわかる、結局そういう希望でテンションを上げてないと社会で頑張ることなんてやってらんねぇんだよな。ドーピングのようなもの。

でも、そのドーピングに疲れる時はやってくる。希望ばかりを追うのはしんどい。

そんな時、文学部はあなたのもとへやって来る。

文学部は、たとえばヘミングウェイの『移動祝祭日』みたいに、あなたのところへやって来るのである。

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我が家のぬいぐるみ可愛くないですか。


文学部の先生方は言う。文学や歴史や哲学やどれを見てもわかるように、世界は絶望や虚無に満ちてるよね、もう僕はそろそろ歳もとったしいいんだよ、でもあなたたちは若いし希望もあるんだから生きなさいね、と。

そして先生方は、そう言いながら私達を踏んづけて行く。知識と論理力と背中とその他圧倒的なものによって軽々と私達を踏みつける。くやしい。なんでやねん。もう死ぬ歳だなんてさっきまで言ってたくせに。

私達は、そんな先生方を乗り越えるために、いつか先生方を踏んづけるために、図書室の埃臭い匂いを嗅ぎ、本をめくる。なんでこんな私はアホなのかなぁ、ちくしょうこんなん読めねぇよ、と半泣きになりながら。

文学部という場所のことを思うとき、私はその時嗅いだ本の埃臭い匂いのことを、思う。

 

希望なんていうきらきらした言葉はどこにもなかったけれど、むしろ希望なんかこの世界にはないよって言われ続けたような気もするけれど、でも、文学部にはたしかに絶望と失望に満ちた中の希望があった。

それは文学部の古いほうの校舎に眠る幾多の論文雑誌のことで、地下の図書室に至る踊り場に掛けられた自殺予防の網のことで、そこで出会って鴨川デルタで缶ビールを飲んだ友達のことで、三限の講義室でうつらうつらと頭を揺らしながら聞いた先生の声のことだ。

 

私は明日世界が終わるって言われても「よしきた!」と思うだけだろうけど、明日食べたい期間限定のハーゲンダッツを買うことと、明日のゼミで読む論文を予習しておくことを怠らない。

あーもう明日人生終わってくれよと嘆きながら、明日借りる本の予約をしている。

まぁ、そういうことなんだよな。


人間も世界もどうしようもないけど、万葉集の歌は、カズオ・イシグロの小説は、九鬼周造の理論は、ラファエロ前派の絵画は、それでも善きものなんだよ。残念だね。

くすくすと笑いながらそれらの悦びに浸った、そういう文学部的空間のことを、私はたぶん一生忘れない。

そんで文学部がいらないとかなんとか外野からは言われるけれど、文学部はいつだって埃にまみれてそこにある。疲れた時に移動祝祭日みたいにあなたのもとにやって来る。だから誰になんと言われようと、あなたとわたしの文学部は、何ものにも壊されたりはしないのだ。

 

 

そんなわけで、いろいろあるけど文学部たのしいよ。

文学部への入学、おめでとう! 

 

どうか、あなたが素敵な出会いと幸福な日々を、ここで見つけられますように。

 

*1:これは私の所感なのだけど、文学部に来ると就職できないのではなく、文学部に来ると就職を素直にいいものと考えられないスピリッツに染まってしまうため就職へのやる気が若干なくなる、の方が正しいと思う。でも私の知ってる文学部の方々はみんな立派に就職なさっていったので、そんなに世間は言わなくても……って思っちゃうな~どうでしょうね。

*2:耐震工事のために新館を建てたのに、旧館はいまだに雑誌所蔵の図書室として使われているという文学部の闇。文学部の雑誌室に行くやつは地震で野垂れ死んでもよいという暗黙のメッセージにしか思えない。

*3:講義がほんっとうに面白かった、思い出の先生。もう退官なされたけれど、「テストの九十分間、どこに行っても誰に何を聞いても何を見ても構わないから回答を完成させよ」という試験、面白かったなぁ。まったく歯が立たなかったけども(今ならもうすこしマシな回答が書けるかな、無理かな……)。ちなみにこのテストには二問目があって、「この授業への自己評価を百点満点で点数をつけなさい、それをあなたの成績にします」という問題だったのだ

鴨川を語る詩人になれなくて

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桜の季節である。完全に今年は早かった。いつもなら入学式の段階で「わ~京都の桜きれい~♡満開だ~♡」なんて言う初々しい新入生に「ところでうちのサークルのお花見がこの週末にあるんだけど来ない?」と下手なナンパかよとつっこみたいサークルの新歓が行われるところであるのに*1、今年は卒業式の段階で咲ききってしまった。どうすんだろう彼ら。がんばれ。

そんなわけで桜といえば鴨川である。京都では鴨川といえばトンビ*2、そして桜といえば鴨川なのである。循環論法みたいだな。

鴨川といえばその昔、鴨長明せんせーも眺めながら「ちょう無常!」と言ったとか言ってないとか*3柿本人麻呂も「鴨川で会いたい♡」と言ったとか言ってないとか*4、鴨川を前にするとみんな何かしら言いたくなる。そう、鴨川を前にすると、みんなしてポエマーになるのである。

ポエマーになる。

びびる。

 

 

これは個人的統計に基づく情報なのだが、京大生は異様なまでに鴨川での告白が好きだ。なぜってくらいみんな鴨川で告白する。私の京大女子会ライフの中で「告られた~」「おお、ついに」「いやー鴨川行ったらなんかそういう雰囲気になって」「あ、ああ~~KAMOGAWA……」みたいな会話を何度したことか。おそろしい。何があるんだ鴨川。『月刊マーガレット』に頻繁に登場する渡り廊下よろしく、京大の女子会に頻繁に登場する鴨川。

何なんだ鴨川。きみは何を隠しているんだ。きみは何を京大男子に飲み込ませているんだ。

 

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私は覚えている。ゼミの最中、「二十歳になるのが嫌だった」というトピックを扱った時(文学研究のゼミってこんな話を授業中にするんですよ……)、ある男の子が「二十歳になるのが嫌すぎて、深夜の鴨川のほとりを猛ダッシュして泣いた」というエピソードを披露したことを。

ちなみにこないだは卒業式だったのだけど、東京へ引っ越す友達の数人が「タクシーで鴨川を渡るとき泣いた」「最後に鴨川を自転車で漕いだ時泣いた」「最後の桜を鴨川で見て泣いた」という発言を残して去っていった。彼らが最後に残したダイイングメッセージにやたらめったら「泣ける場所」として登場する鴨川。

そしてむかしNHKで「ドキュメント72時間」という番組があり、「鴨川をひたすら72時間うつすだけ」という狂気の沙汰かよという回があったのだが、東京でその番組を見た私の友達はみんな言っていた。「泣いた」と。

 

鴨川、どいつもこいつも泣かせすぎ問題。

 

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鴨川なんて、ただの川だ。

だけどなんでみんなそんなに揃いも揃って鴨川が好きかといえば、「お金のかからない遊び場所」だから好きなだけなのだ。鴨川の思い出を聞かれても、きっとその告白の記憶とかみんなでデルタで飲んだ記憶とか花火した記憶とかお花見で誰かが川に飛び込んだとかお花見じゃないのに誰かが飛び込んだとか、結局友達とだらだらしたり喋ったり飲んだり、そういう記憶しか思い出せない。

そう、鴨川はただの川だけど、重要なのはそこで過ごす時間がタダであり、大抵鴨川に行くなんていう時は暇なときであること

 

「時間を気にせずいられる、お金のかからない遊び場所」がどんなに貴重だったのかを、私たちは意外と、知らない。

 

京都を卒業してゆけば、「お金をかけずにだらだらと過ごせる場所」は存外に減ってゆく。宅飲みだって結婚したり会社の寮に住んだりすればできなくなる、居酒屋もカフェもキャンプ場も、思っていたより有料だ。

その時私たちははじめて知る。「外でだらだらする」ことが、思いのほかむずかしいことを。

そして思い至る。「外でだらだらする」ことのできる友人という存在が、思いのほか貴重であることを。

 

夏は蚊がいて、春と秋はちょっと肌寒くて、冬はかなり寒くて、年中無休でトイレがコンビニにしかなくても、それでも「なんとなく朝まで一緒にいちゃう」相手は、案外いない。

無駄な時間の共有。退屈で「もう帰ろうかな……でももはや帰るのもめんどいな……」くらいに思う友人との会話。明日になればほとんど覚えていない内容。それは今私たちが思っているより、けっこう、手にすることが難しいものである気がする。効率的じゃないし、ね。*5*6*7

 

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ある時ジョイスの『ダブリナーズ』を読んでいたゼミで、教授は授業の最後に、ふと思い出したように言った。「きみたち、鴨川で朝まで飲んで、朝日を見るとかするでしょう」

そして、教授はにこっと微笑んだ。

「それね、今だけだよ」

 

 

今だけなのだろうか。私たちは、鴨川で朝まで飲まなくなった時、鴨川を語ることができるのだろうか。

 

 

鴨川は遠くにありて思うもの。ってわけじゃないけど(実際、鴨川で泣いてる現役京大生はたくさんいるらしい)、でも、まぁ、今のところ私は鴨川を見てもべつに泣かない。京都にいる身としては、鴨川は基本的に楽しい遊び場である。鴨川を語る資格のあるやつは、鴨川を卒業できたやつだけだ。

 

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京都を離れないと、まだ、鴨川を語る詩人になんて、なれない。

 

 

*1:ちなみに京大のサークル男子たちが新歓時期に最も楽しみにしているのは京都女子大に新歓しに行くとこであり、京大生がハツラツとしているところを見ることが出来るのは一年でその日だけと言っても過言ではない。しかし京都女子大の構内には入れてもらえず警備員さんに虫ケラを見るような目をされるとかされないとか。

*2:鴨川でひとりでパン食べてたらまじでとんびに食べられるから注意してくださいほんと。ちなみに私もとんびに持っていたパンを今出川通りでかっさらわれたことがある。やつらはプロ。

*3:言ってませんごめんなさい。

*4:言ってませんごめんなさい。でも「鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」(万葉集巻11・2431・人麻呂歌集)って歌はあるよ

*5:そういう意味でシェアハウスとか大学時代の友人関係に近そうで、だから流行ってんのかなとも思う

*6:二、三枚目は友人が撮った写真です。すっごい上手で惚れ惚れするわ。M枝、使わせてくれてありがとう!

*7:はいこの記事で一番言いたいことですが、このタイトルに反応したあなた、SKEオタクですね!?「恋を語る詩人になれなくて」、聞いたことない人は聞いてね! いい曲だよ!

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