場所の記憶はいつもなぜか重層的(あるいは女の子デートの思い出)
時間というものは線上に流れているものではなく、浮かんでいるものである。
と、最初に言っていたのは、だれだっただろう。
たしか恩田陸のエッセイか小説だったと思う。が、どこで読んだのか忘れてしまった。こないだ読んだ萩尾望都特集冊子に恩田陸が寄せたエッセイで同じようなことを述べていたので、たぶん恩田陸がどこかで書いた断片を私が記憶したのだろう。
時間は浮かんでいる。そしてもっというとーー重なる、ものである。
と、私は勝手に思い込んでいる。
SFとか物理とか哲学とか色んな本をもっと読めばちゃんと説明できるのかもしれない。キリスト世界的感覚とヘブライ世界感覚というのがこの世にはあって、現在メジャーじゃないが後者の感覚に日本人は近い……という話も昔読んだ。*1けど、私は「時間」そのものがどう動いているかにはあんまり興味がない。個人的には、時間じゃなくて、記憶とか思い出とか、要は「自分の中の過去」や「自分の中の時間」がどうなってるのか、のほうに興味がある。
自分が過去に経験したこと、抱いた感情、それから記憶している思い出。それが私たちの中で、どういうふうに保存されてどういうふうに消されて、なにによってもういちど思い出されるのだろう。
思い出はぷかぷか浮かんでいるが、時に消えて弾けて、またよみがえる。
先日、東京にいる友達がふらっと遊びにやってきた。
大学時代をたっぷり京都で過ごした彼女とごはんを食べるべく、祇園四条に集合……と思いきや、ごはんもそこそこに、彼女は急に「八坂神社に行こうよ」と言ってきた。
なぜこの期に及んで八坂神社。いまさら京都観光って身分でもないだろーにきみ。
私が笑うと、彼女は「いや実は今日の京都巡りのテーマは」と言った。
「いろいろ忘れたい思い出を、香帆ちゃんで上書きする、ってのが目的ですから!!」
要は、彼女が京都で過ごした思い出の場所を巡り、彼女が「あああなつかしい」というのを私はひたすら横で聞く、というのがその日のコンセプトらしかった。
なぜその立ち位置に私、つーか完全にわたし失恋した後の当て馬不憫ポジション!
と笑いながら、いいよいこうよ、と、二人で30度を超える蒸し暑い京都をてろてろ歩いた。
「このバーで、すっごい好きだったけど付き合わなかった人と飲んだんだよね」
「えーいいねぇわくわくするやん、どんな会話したの」
「なんか、どこからが浮気のラインか~とかそういう話」
「どこからが浮気なんですかおねーさん」
「私は何て答えたか忘れたけど、その時、彼が『彼女だったら他の男と喋ってるだけでちょっといらっとする』って言ってて、めっちゃかわいいと思った」
「あーかわいい、でもそれ男の人だから許される発言って感じ~なんでだろうね」
「女の人だとメンヘラっぽくなるねたしかに」
八坂神社で彼女が元彼と撮った写真と同じ構図で私たちの写真を撮る、とか、元彼とよくデートした道を私たちで歩く、とか、そういうことをしていきながら彼女の話を聞く。
そのうちに、暑さのせいだろうか、私はどんどん不思議な感覚に覆われていった。
たとえば八坂神社を見て、私はむかし八坂神社に来た時のことを思い出す。ああ屋台あったけど案外割高でスルーしたなぁ、とか、神社でおみくじ引いたけどそのあと結局結んだっけどうだっけ、と。
だけど横では彼女が自分の思い出をぱらぱら話してゆく。ここでおみくじ引いてさぁ、そんで写真撮ってさぁ。
すると、自分の思い出と、他人の思い出が、へんに重なって溶けてく感じがする。
あ、暑さのせいだろうか。
街を歩いて、「ここでご飯食べてさ」「この時めっちゃ楽しくて」「ここで泣いて」とかいう発言を聞くたび、他人の思い出が自分の思い出と重なってゆく。
だって彼女にとっての思い出の場所は、私にとっての思い出の場所なのだ。同じ京都で同じ大学生活を過ごしたのだから、そりゃ同じ道を何度も歩いているはずである。京都の大学生が大概デートしたり友人と飲んだり誰かと歩く道なんて、ほぼ変わらない。「あー私も行ったこのお店」「ここたしかに男の子と行くにはいいよね」とか相槌をうつようになる。
変な感じ。
「場所」にまつわる記憶は、当たり前だけど人によってちがう。だけど、その記憶を思い出す「場所」は、当たり前だけど同じ場だ。
すると、私の思い出まで彼女の思い出に重なってくるように見える。
思い出は重なる。そんで、今日のことも、たぶん思い出に変わる。
混乱してきた。
東京という町は、場所によってさまざまな時代が見られ、それらがつぎはぎのようなモザイク状になっている町だ。しかし、京都は同じくさまざまな時代が見られるのだが、それはミルフィーユのごとく底の方から重層的に積み重なっているのだ。(『小説以外』新潮文庫p48)
恩田陸がエッセイで、京都のことをこう述べていた。私はこの文章を京都に来る前に読んでおり、この捉え方に完全に洗脳されているのだが、やっぱりそうだよな、と思う。
個人単位でも場所の思い出って重なるのに、京都って街はたしかに時代単位で重なり合わせている。
私自身も、彼女も、京都の重なってゆく地層のいちぶだ。
カフェとか、居酒屋とか、神社とか、小道とか、川辺とか。
場所から浮かんでくる思い出がある。
場所から浮かんでくる思い出は、ものすごく断片的で不連続でそしてどんどん重なってゆく。
彼と行ったカフェ、は、彼女と行ったカフェ、になって記憶が曖昧になって重なる。
今日も私は京都で過ごす。たぶんいつか思い出になる。
街は忘れていた思い出を連れてくる。「あ、ここ、前に来たな」と思って、だけどその思ったこともまたいつか思い出になって、そうして、街や場所の記憶は重なってゆく。
先日彼女と歩いた京都の街を、今日、こうやってブログに残して思い出す。
でもそれって本当に私が歩いた街の記憶なんだろうか。
誰かに言われて自分の記憶だと思い込んだり、小説で読んだものを自分の記憶だと勘違いしたり、他人との記憶が溶けて重なってできたなにかじゃないのだろうか。
むわっとしたこの京都の気候によって生まれたなにかなのではないのか??
「このカフェ、今までの人生でいちばん好きだった人と来て、彼を好きなった場所なんだぁ」
あれ、これ彼女の発言だっけ、私の発言だっけ。
私の思い出? それとも彼女の思い出?
それとも全然ちがう誰かの思い出?
ほんとに?
記憶は重なって、いつも混乱している。
恩田陸のエッセイ、確認したら「時間も空間も連続してない」だった。
とっても読みやすいので日本人の感覚みたいな話を読みたい人はぜひ。
影響を受けすぎてつらい。
その本棚に潰されなくとも
昨日の朝、がたがたっ、と私の横が揺れた。
なんじゃらほいと思って顔をあげると、揺れていたのは私の頭の前にある大きな本棚だった。
そして本が二冊ほどジャンプするみたいに、飛び出していった。
ひゃーすごい、と思うも束の間、自分も揺れていることに気づいた――くらいのタイミングで、揺れなくなった。
そう思って目の前の本棚を見つめた。体育座りでパンを食べていた私の横には、本がぎっしりと詰まった、背丈よりも大きい本棚があった。めっちゃ普通に揺れていた、のだ。さっきまで。
わ-、これでもしこの本棚が倒れてきてたら、完全に私直撃じゃないですか!
と思って、のそのそと本を二冊拾ったところで、ふと、既視感を覚えた。
なんかこれ、前もあったぞ、と。
七年前だ。
高校二年生だ。もうすぐ高校三年生になろーかという季節。たしか、当時の私の「志望校」であったところの京大入試でyahoo!知恵袋に入試問題が投稿される、というけったいな事件が収束した頃合いだった。*1
期末テストの期間で、だから午後の割とはやい時間に図書室にいたのだ。もちろん図書室へ勉強しに行ったわけではない。趣味の本を借りていたのである。今にして思えば勉強しろよとツッコむ。うーん期末テストはちゃんと終わっていたのだろうか……。
しかしその日、もちろん高知県は揺れなかった。東北で大変な地震が起きたことなんて、気づかない。図書室で私が本を選んでいると、「ピンポーン」と校内放送が鳴った。
「東北で大きな地震が起こりました、津波の心配がありますので全校生徒は速やかに帰宅してください」
――その放送を聞いた時の風景を、私は今でも鮮明に覚えている。
私は学校の図書室の、大きな大きな棚の、村上春樹全集の前にいたのである。
その時の一瞬、にわかに思った。
「ああこの瞬間起こった地震の場所が高知だったなら、私はこの本棚に潰されて死んでたのかもな」と。
結局、図書室の司書さんに急かされながら選んだ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を借りて帰った。
その時、私は当時の東日本の凄まじい状況など何も知らなかった。ほんとうに何も。帰ってからテレビをつけて驚いた。
あの時見た、終わらないニュースの風景。そのテレビを青ざめながら見ていた母親の横顔とか、異様なまでに流れる「ぽぽぽ~ん」のCMとか、私はたぶん一生忘れないだろう。
だけどその記憶以上に、図書室で感じた「あ、この地震がもし高知で起こっていたら」という感覚を覚えている。
「ここで本棚に潰されていたのは自分だったかもしれない」という感覚。
いや、そりゃ「この地震が高知だったなら本棚に潰されていた」とか完全に不謹慎な発想である。何が本棚やねん、本当に震災にあわれた方の気持ちを考えろっ、という話でもある(もしこれで気を悪くされた方がいたら本当にごめんなさい)。*2
それでも「あ、もしかしたらこの瞬間死んでいたのは私かもしれない」「なのに私じゃなかった」という感覚は、私のどこかにずっとずっと残っている。
だってあの時私は自分より大きな背丈の本棚の前にいたのに。
ニュースで地震の映像を見ると、ほんとうにつらい。何がどうして誰かの好きな人や街や大事なものをぜんぶ壊されなくちゃいけないのかと思う。どうして、地震とか突如やって来る「そういうもの」は、私たちの大切なものを奪ってゆくのか。
だけど、そんな私の嘆きなんて知らずに、「そういうもの」は手を変え品を変え私たちの前へやってくる。
その本棚に潰されなくとも。地震にたまたま遭わなくとも。
災害だったり事故だったり病気だったり犯罪だったり「そういうもの」は、私たちのもとへやってくる。
「そういうもの」は、できるだけなくしてほしいけど、きっとなくなることはない。
さあもうどうすればよいのかっ!
と地球にツッコミを入れたくなるけれど、しかし地球は依然としてすっとぼけた顔でボケ続けたままである。居住まいを正してくれる気はなさそうなのだ。どういうこっちゃねん。
だけど今のところ地球がどうにかする気がないのならば、どうにかこうにか、奇跡的に目の前にいてくれるあってくれる私なりの好きなもの好きな人その他大切なものものを、大切にしてくしかないんですよね……。
ああもう、どうかちまちま地球が耐えて、あるいは人間がなんとか技術を上げて、大きな被害が出るような災害がひとつでも減りますように~~~。もう、たのむよほんと……!
それにしても。
あの時ぞわっと感じた「今、ここで死んでたのは私だったかも」という感覚も、「だけど私じゃなかったんだなぁ」という心情も、色んなことに対して「こわいこわいこわい」と思う臆病さも、なぜかいまだに大きい本棚の前にいることも、7年たっても変わることはないけれど。
それでも私は、まだここにいるんだよなぁ。
なんだか不思議で怖くてよく分からなくて、でも、当たり前じゃないのだ、と、笑ってしまう。
当たり前じゃないよね。明日もがんばっていきましょーね。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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ちなみに村上春樹の小説は高校生の時読んだけど「『ノルウェイの森』しか好きじゃない」というのが本音であった。私が彼の作品をちゃんと読むようになるのは、もっとずっと後の話である。
なぜ京大生は無駄話が得意なのか?
いつだったか、森見登美彦さん原作の映画『夜は短し歩けよ乙女』を見た感想として、「すべてが無駄で埋め尽くされており、こんなにも大学生活は無駄なものでいいのかと思った」というものを見かけた。
ちょっとどなたのTwitterだったのか失念してしまったので(もしこれ読んでる方で呟いた方がいらしたら教えてください)、正確な言葉は覚えていない。しかしまぁとにかく「すべてが無駄」という極めてまっとうな感想は、私の心に残った。
まぁ、『夜は短し歩けよ乙女』の世界には就活もインターンも学費のためのバイトも結婚を見据えた恋愛も(たぶん)存在しておらず、まったくもってその内実は無駄としか言いようがない。たしかに。
しかし私は思う、京大生って、無駄、もっというと「無駄話」が得意なんだよねぇ……。
たまにネットの海にぷかぷかと浮かぶ京大出身のブロガーさんの文章*1を発見する。読むと、みんな口から生まれて来たのかというくらい無駄な文章が得意だなァと思う。いや褒めてるんですよ。というか「無駄」な話を読ませるのが上手い。技術がすごい。
この「京大出身文筆家は無駄話を書くのがうまい」現象、なんなんだろうと思ったのだけど、まぁひとつは京都大学(「よっ!」という歌舞伎的合いの手を入れてほしい。嘘です。)の教育のたまものではないか、と思う。*2
文系の場合、学部三回生くらいからゼミ形式の授業に出る。ゼミは基本的に「自分の発表」(要はレジュメつくってプレゼン、みたいなやつ)を中心にまわる。しかしこの発表だけならたぶんほかの場所でも沢山やっていることだろう。っつーかたぶんほかの場所のが多い。そして私が経験した限り、まともな発表なんてほぼできた試しがない。大抵の学生は、「とほほ」というちびまる子ちゃん的溜息を浮かべて終わる。
そう、重要なのはそこじゃないのだ。
ゼミでは、いつも「他人の発表に対して、なんでもいいから質問」という時間が課せられる。これが学部の時からずっと続く。
大抵、学生がする質問なんてたいした質問がでてこない。「素朴な疑問」とかそういうのが多い。
しかしゼミの先生は、それを「いい質問だね」と言って引き取る。
そして、「きみのその質問と同じような話を、この先行研究がおこなわれていて、その先行研究の文脈の中で、この立場を取ったってことになるんだよ」という風に説明する。そこで私たちは気づく。「いま自分がもった疑問は、既に誰かが研究していて、その文脈の中にあるのか……」と。
そしてこの文脈というもののつなぎ方を、先生から、学ぶ。そうか、己の疑問というのは大抵どこかの人が発した疑問に基づいていて、オリジナルというものはほとんどありえず、誰かがどっかで言ってることなんだな。ならそれを読まなきゃならんな。
そういうふうに、私たちは、文脈というものの存在に気づく。
無駄話というのは、基本的に「文脈の集合体」である。それは連想ゲームなのだ。「あれ」があるなら、「これ」もあるでしょ。そんなふうに無駄は積み重なる。ひとつシンプルなことを提示する、というのではなくて、そのシンプルなはずのものに、「こういう文脈でも捉えられるよ」「こういう話もあるよ」と、つなげてゆくのが無駄話というものだ。
大抵京大にいたら、サークルにひとりやふたり「無駄話のうまい先輩」というのがいて、その先輩から私たちは無駄話のつなげ方を、学んでいるとも知らずに学ぶ。そしてその先輩というのも、どこかのゼミの教授や、先輩や、そういう人がオリジンとなっている。
無駄話は伝播する。受け継がれてゆく。いつしか大学に蔦が這うようにしてはびこる。
こうして私たちは、無駄話を学ぶ。
ほかの大学にも存在しているものなのかもしれない。でも無駄話というのは基本的に「無駄な時間」からしか生まれない。当然だ。そして文脈というものも、文脈を理解するのにかかる労力やらコストやら時間やらを待てないと、つかめない。
その無駄な時間をゆるしてくれるのが、京都なのかもしれない。と、私は、思う。
そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ
このブログのコンセプトは「京都の学生生活おすそわけ♡」なはずなのだが、そろそろ本筋から外れすぎてあかんと思う今日この頃である。なんじゃ前回の文章のセブンルールて。自分でつっこむわ。いや書いてて楽しかったからいいんやけど。
しかし京大について語るにしても、いかに京大生が世間のプレッシャーと期待と己の自己像に溺れて変人のフリをしたがっているか、とか、いかに京大男子に新海誠(君の名は。ではない、秒速五センチメートルのほうだ)好きが多いか、とか、そもそも京大男子を知りたければ逃げ恥を読めばすべて事足りる、とか、まぁ、そういう話をしようかなとぼんやり考えて……いたのだが……そんな京大生の生態をみんな読みたいかしら……とちょっと謎と不安にかられてしまった。いやどうなんですかね。
というわけで京大から微妙に外れた京都話をする。のだけど、今日いいたいことといえば、もうタイトルですべてである。
そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ。
以上、終了。でもいいんだけど。
いやちょっとお姉さん、思いません? そろそろ欲しくないか、京都アンソロジー。
私は「京都」をひとつのジャンルである、と思っている。
SFとかミステリとかそういうものと並んで、日本人(世界にも、なのか?)の中には「京都」というジャンルが存在しているのである。小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、京都が出てくれば、それはただのご当地ものでもなく、「京都モノ」になる。
京都を無駄に使うことなどほぼ許されない。それはミステリの皮をかぶるならば謎解きをしろ、という引力と同じ類いのものであるように見えるのだ。
たとえそこに舞妓さんや清水寺が出てこなかったとしても、京都が物語に出てきた場合、京都の空気がそこになくてはならない。
やっぱりみんなの中に、京都というだけでそこに内包されるイメージがあって、そのイメージはなかなかどうして明瞭なのだ。京都在住です、と県外でいえば大抵「わー京都か、いいねえ」と言ってもらえるくらい、京都はみんなの心象風景の中に根付いている。ちなみに私は高知出身だが「高知、いいねえ」と言われる回数は5回に1回くらいである(そのほとんどが龍馬とお酒とイケダハヤトさんの功績である)。
ちなみに京都ほどのジャンルになり得る土地は、あと日本では北海道くらいだろうか。北海道文学というのは案外存在していると私は見ている(三浦綾子も『Love Letter』も動物のお医者さんもそうだ)。
で、SFもミステリもしばしばアンソロジーが組まれるのに、京都は案外まとめられたことが少ない。なぜなんだ。こんなにみんな京都が好きなのに。
というわけで、どなたかつくってください、京都小説アンソロジー。読みたい。
ぜーったいに京都の安易なイメージにのっからず、それでいて京都だなぁと思う空気感があり、「おお、これも京都」みたいな意外性があるものがいいな。
斎藤美奈子の『妊娠小説』みたいにむしろ『京都小説』で一冊批評本を書いてもらってもよろしい。うん、むしろそっちのが面白そう。
たとえば『ノルウェイの森』はまぎれもない「京都小説」だと思うし(阿美寮は京都になきゃいけない気がする、なんとなく)、入江敦彦の『イケズの構造』みたいな京都論ももっと読みたいし、野崎まどの『know』みたいな京都の精神ががつっとでた小説(個人的にはあーいうのが京都っぽさだと思う)ももっと知りたい。綿矢りさも京都っぽい作家さんだと思う、なんかこうあの手さばきの緻密さに反した「しれっと感」みたいなものが。森見登美彦と万城目学がいかに京大生のイメージを変えたかってのもだれか今のうちにまとめといたほうがいいのでは。
ねぇ、ほら。なにとぞ。よろしくお願いしますよ。
京都論の傑作。
ふだんSFを読まない私も面白かった。おすすめ。
大学院生がアイドルから学んだ「読んでて楽しい文章」を書くためのセブンルール
ネットで文章を書き始めて、はや数年が経とうとしている。
ありがたいことにたくさんシェアしてもらえた記事があったり、
こちらの記事をもとに「本を書きませんか?」と出版社さんから言ってもらえたり、
ある程度、日々たのしく文章を書き、読んでる方にもちょっとは楽しんで読んでもらえてる……のではないかと……思います(なんかこう書いてたら自信がなくなってきましたが!)。
で、私が文章を書き始めたのって、だいたい「女子アイドル鑑賞」にはまった時期とぴったり重なるんですよね。
ちなみにAKBグループおたくです、乃木坂も好き(最愛の松井玲奈ちゃんが卒業したりアイドルおたく人生にも色々ありましたが、語れば長くなるのでここでは割愛)。
私はたぶん誰よりもアイドルから文章の書き方を学んだんですが、この話を先日友達にしたら「それ面白いからブログとかに書きなよ」ってすすめられまして、なるほどこういうのをブログに書けばいーのか! と思い立ちました。はい、というわけで「私がアイドルから学んだ文章の書き方」というお話。
アイドル。それはひたすらに「歌やダンスの実力だけではないところで、観客に楽しんでもらうこと」を志向する方々。
つまり、私のよーな「文章の中身や技術だけではまだそんなに楽しんでもらえねぇ!」というような人間こそ、アイドルの真似をすべきなのでは、と思っているのです(逆に、文章の中身がものすごく情報として価値がある人は真似しなくてもいいと思う)。
ダンスのプロでも、歌のプロでもない。私たちは「みんなを楽しませること」のプロだ! と、アイドルの方々は言っているように見えます。
その技術をね、私は文章に応用してみたかったんです。
というわけで、セブンルール。*1
①書き手の表情がわかりやすいこと
②読み手をひとり決めること
③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること
④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること
⑤できるだけ短く書くこと
⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと
⑦愛があること♡
①書き手の表情がわかりやすいこと
喜怒哀楽がはっきり分かる子って、見てて楽しくないですか。
……はい今ちょっとこれ引かれる気がした。あかん。私の女の子の趣味紹介の場ではない。いやあのねっ、たとえば女の子がステージで踊ってるとき。その子の表情が一辺倒よりも、笑ったりちょっと切なそうになったり驚いた感じになったり、いろんな表情してたほうが、見てて楽しくないですか!?
それと同じで、私は、できるだけ「書いてる人の表情」が分かるような文章を書きたいんですよ!
今テンションが低いのか高いのか、怒ってるのか笑ってるのか。できるだけ無表情な文章を書きたくなくて。読んでる人が、書き手の声が聞こえるくらいの、表情豊かな文章が書くこと。を、目標に置いております。サイレントなマジョリティーは目が死んでるように見えちゃうからな!
②読み手をひとり決めること
アイドル文化を知って「おもしろ~~」と思ったのが、「レス」文化。これ何かと言うと、握手会などに頻繁に来て知ってるファンの人を、アイドルがステージ上から「やっほー! 見えてるよ!」って指さしたりウインクしたりしてレスポンスを返すんです。すごいよね、アイドルの記憶力……。でもこれ、ファンがテンション上がるの、わかる。「私に向かってウインクしてくれた!!」ってめちゃ喜ぶ。
で、まぁアイドルではない一般ピーポーにファンはいないのですが、文章を書くとき、脳内に「この人」って読み手をひとり決めてみるんです。要は、エア・ファンを脳内で製造する(あれ、そろそろまじで引かれそう、我ながらきもちわるい)。
この人、ってのは誰でもよくて。家族でも友人でも同僚でも恋人でも。あと私がよくやるのは「○○歳くらいの自分」。中学生の私に読んでもらう、と想定する。
そんで「この人に読んでもらう」って決めて、その人のためになりそうなこと、その人に言いたいこと、その人に楽しんでもらえそうなことを、書くんです。
実際に、その人に読んでもらわなくてもよくて。ある程度「こういう人に届けたいなー」というのがはっきりしてると、その人と同じような境遇の人にも、楽しんでもらえる気がします。これ、名づけて「アイドルはひとりにウインクしたつもりでも、その半径1メートルの周りのファンはみんな俺にウインクしてくれたと思う現象」。みなさん狙い撃ちしていきましょう(さらに引かれそうな発言)。
ま、まぁビジネスとかでいうとマーケットをちゃんと決めるとかそういう話ですね。
③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること
はい、問題です。ステージ上にいるアイドル、あるいはバラエティに出たアイドルが「カメラにたくさんうつる」ためにはどうしたらいいですか!? そう、キャッチーなことを言うあるいはキャッチーな表情(ウインクとか)をつくること!!! 売れてるアイドルってまじでこういうのうまいよね……指原さんとか。
というわけで、一般平民の我々も、文章でカメラにうつっていきましょう。
どういうことかと言いますと、「SNSで拡散するときに、その言葉を抜き出してシェアしたくなる」言葉をちょっと入れるよう、鋭意努力するのです。
私もこれなかなかできないんですけどね……。どこが読み手の人に刺さるかわからないから、まだまだです。「あ、そこ抜き出すんだ!」みたいなこといっぱいある。しかしトライアル・アンド・エラーはしてみると楽しい。
キャッチーなタイトルとか、キャッチーな決め台詞(当社比)とか。ちょっと意識するとちがう、かも。私も修行中の身なので、もし何かコツがあれば教えてください……。
④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること
みんなと同じこと言うアイドルは、300人以上いるAKBグループの中じゃ目立てないぜ! 売れたアイドルはやっぱりみんなと違うことしてるぞ! すごいぞ!
というわけで、何を書くにしても、「すでに誰かが言ってそうなことを書く」ことはできるだけ避けたいな~~って思います。
ていうか、すでにどっかで読んだことあるもの読むの、まじで時間の無駄で苦痛じゃないですか。私は嫌だ。僕は嫌だ!
せっかく読んでくれている人に時間の無駄使いをしてほしくないので、できるだけ自分だけが言ってそうなこと書くことを、意識。
⑤できるだけ短く書くこと
これもまぁ、読んでくださってる方に時間の無駄をさせたくないぜ、と同じ話なんですが。
アイドルさんたちもね、やっぱり短くて的確なコメントをする力が、すごい。泣いててもコメント求められるし、怒っててもコメント求められる。なかでも売れてる子は、コメントがだらだら長くない。というか、みんな売れるに従って短くコメントするようになる。あーいうの、売れ出すとマネージャーさんとかが指導し始めるのかな。
私はほうっておくと文章が長くなってしまうので(今回も長くてすみません)、「できるだけ短く!」を心がけて、時間あるときはちゃんと削る。時間ないときはそのまま放り投げちゃいますけども。
⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと
やっぱり、「ステージ上で歌って踊るの楽しい~!」って言ってるアイドルが大好き~~~~~!!!!!!
……という話よりも(ちがうんかい)、まず書き手が書いてて楽しい~と思わないと、読んでもらってる方にも楽しんでもらえないんじゃないだろーか……。と、思います。
どんな題材でも、書いててなんか楽しくないな、という時はできあがったものも「うーん」と微妙なものが多くて。それって書いてる時に読んでる自分がノーサインを出すから楽しくないんじゃないかと。
書くことは基本的に楽しいので、やっぱり楽しんで書きたい、ですね。いつでもね。読んでる人も楽しんでもらえるとさいこーですね。
⑦愛があること♡
世界には愛しかないんだ……ではなく。*2
これはもう個人的な信条なのですが、やっぱり、愛がない文章は世に出したらあかん、と思っているのです、自分に対して。ほかの人の文章がどうかはどうでもいいのだけど。
私の場合、読んでくださってる方とか、あとは何かについて書くときはその何かへの愛とか、まぁ、そういうのがない文章になると、わりとその時の自分しか楽しめない文章になるんですよね……はは……。ていうかあとで読んで「うげっこの文章消したい」ってなりそうで、嫌。自分が書いてすっきりしたいだけなら、公開しなくていいわけだし!
アイドルさんたちを見ていると、あの若さで、ファンの人とか観客の人に愛をあげてる様子に、やっぱり感動しちゃうんですよ。私は。
好きな作家さんの文章読んでても、アイドルを見ていても、やっぱりそこで自分が愛をもらう気がするから、元気になるわけで。
というわけで、私もどうにか愛のある文章を書きたいですね。
まぁこれ未来の自分が読んだら青臭すぎて死にそうだけど! 知らない!
はい、というわけで、アイドルから文章の書き方を学んだ、マイ・文章・セブンルールでした。
昔読んだライターさんの文章に「文章を書くときのルールなんてのは、癖みたいなもんで、どや顔で語るべきではない」っておっしゃってて、まじでその通りだとは思うのですが、まぁ2018年現在持ってるポリシー、くらいに考えていただければ幸いです。
それにしてもアイドルさんたちはこれを生身の人間でやってるんだからほんとうにすごい。天才ばかりである。
立て看板のないきれいな大学になれてしまった
世間をお騒がせしながら(したのか?)大学から立て看板が撤去された。
そして現在、ぶっちゃけ、大学の周りがきれいになった。*1
正直な話、私は立て看板を立てたことも撤去したこともなく、特別な思い入れがあるかないかと言われればまぁないほうである。というか立て看板、撤去されるまでその存在を自明のものとして受け取っていたので、「そうか、そんなにじゃまなもんだったんか……」と改めて大学という場所をめぐる政治性に思いを馳せる、くらいの行動しかとっていない。
(というわけでここでも立て看板撤去問題についてあーだこーだ論じることはない。そういう話を期待している方は回れ右でお願い致します)
しかし今日になって気がついたことがある。
あ、わたし、立て看板のない大学、ふつうに、慣れてるわ。
サークルの宣伝や大学でのイベントから政治的なメッセージに至るまで、様々な主義主張を載せていた大学の立て看板。
基本的に春の新歓時期には、キャンパスを囲むようにところせましと並んでいる。春が過ぎても、そこに雑草が生えているのと同じような割合で、「ふつうに道にあるもの」として立て看板はあった。
他大学の友達が遊びに来たとき、大学への批判を書いた立て看板を見て「え、こんなんあるのこわい」と笑っていた時にはじめて、「そうか、これはうちの大学特有のものなのか、まぁそらそうか」と認識した思い出がある。
だから、「立て看板撤去」と聞いた時、「へー、なんか風情がないなー」くらいしか思わなかった。
しかし今になって思い出すことがある。
高校生の時、母と一緒にはじめて京大に来た。その際、母が言った。
「なんか京大ってもっとビラとか散らばってて、めちゃくちゃ汚いイメージあったけど、きれいになったねぇ」
たしかにはじめて訪れた大学のキャンパスに、汚いイメージはなかった。
今思い返すと、きっとその汚いビラや看板は、時代とともに減っていった――というよりも、減らされていったんだろうな、と、思う。
清潔さは統制の中にある。街や場所がきれいになればなるほど、いろんな規則は増えるし自由は減ってゆく。
私はそれがいいことなのかわるいことなのか分からなくて、たまに、混乱する。
きれいなものうつくしいもの清潔なものがみんな好きで、私もまぁ好きで、それでいいんだけど、ならばそこからはみでるなにかはどこへ行くのか、と思う。
「きれいなもの」に慣れると、「きれいじゃないもの」をゆるせなくなる。
「立て看板くらいあってもいーじゃないか」と笑う人がいて、正直私もそう思うのだけど(だってあの立て看板を見て「大学を倒そう! 社会を倒そう!」と思った人が何人いたのだろう?)、けど、立て看板くらいも、ゆるせないんだろう。もはや。
所詮立て看板だのなんだの京大生というエリートの遊びだろと思うのだが、それすらゆるされなくなってくのだな、という緩慢とした諦念をいだく。
だってきれいじゃないから。
きれいじゃないものは見ないでいいよ、と言われることに慣れていく。
不安は自由の眩暈だと言った人がいたけれど*2、誰かが不安をゆるせないから、自由はなくなってゆく。
不安はぐらぐらしていて、不安定で、秩序がなくて、きたなくて、どろどろしてて、何が飛び出すかわからない。
いいことなんかわるいことなんか分からんけど、そうやって私たちは統制されることに慣れてゆくし、まぁ、こうやってなにかに飼い慣らされてゆくのだなぁ、と、ぼんやりと食堂の海藻サラダを食べながら思う午後なのであった。
しかし今日は天気がいいな。
夏の下鴨神社はとにかく最高、すきすきだいすきちょうあいしてる
……ってのは舞城王太郎先生リスペクトな題名をつけたかっただけなのですが。すみません。*1 しかしちょうあいしてるかどうかはともかく、京都の観光地のなかで一番思い出深い場所、と聞かれたらなんだかんだ「下鴨神社かな……」と答える気がする。ちなみに一番好きな場所って聞かれたらまたほかにあるのだけど、それはまた別の時に。
下鴨神社に行くと思い出が多すぎてぜんぶの記憶がとろとろ溶けていってしまうので、「あれこれ何回生の時の記憶だっけな」と時間の位相がよく分からなくなる。題して下鴨神社の思い出、真夏のアイスクリームのごとし。とろとろっつーよりどろっどろに記憶が溶けている。たぶんそれは下鴨神社に行く機会が、京都の暑い暑い夏に多かったことにも所以するのだろう。
下鴨神社になんでこんなに思い出が多いのかといえば、大学からすぐ近くにあるのもあるし、下鴨神社は気軽にいけるイベントが多い、あと拝観料がかからない。最高。
京都に来る前は下鴨神社といえば『有頂天家族』のイメージしかなかったのだが、たぬきは結局いまだに一度も見たことがない。私たちの前に姿を現さないだけだろうか? それとも私が人間とたぬきが化けた人間を見分けられないだけなのか。
私は大学でふたつサークルに入っていて、ひとつが「京都の寺社仏閣を観光するだけ」という意識低いどころの話ではないのほほんとしたサークルだった。のほほんとしてるというか、例えば活動日にみんなで寺社仏閣に向かい、そして境内に入る前に「はいじゃあ十六時にもう一度ここ集合で~」と解散する(つまりはサークルで行くのに個人で各々観光する)、個人行動ラブもいいとこな団体だった。ふつうサークルで観光ってなったら皆でぞろぞろ行くもんだろう。*2上回生ともなれば「え、今日銀閣寺? 前に行ったしもういいや、それより哲学の道にあるカフェ行こうよ~」と、 観光せずに集合時間までカフェでだらだら喋る体たらくである。どゆこっちゃねん。しかしそんなマイペース・サークルに入るくらいなのでやたら変な先輩が多くて楽しかったなぁ……って過去形にするほど昔の話でもないのだが。これ美研の人読んでんのかな。
そんなサークル活動でいくつかある「リア充っぽい」イベントのひとつに、六月頃、「下鴨神社にいって蛍を見る」というものがあった。下鴨神社といえば「大量の蛍を川に放流する」時期があって、下鴨神社の境内の川に蛍があふれるほどにいる時期があるのだ。*3
蛍をちゃんと見る機会なんてたしかにそんなに多くなくて、案外「見よう」と思わなければ見えないものである。しかし京都の大学生はそれこそ銀閣寺近くの川辺やら下鴨神社やら、蛍を「見よう」と思ったらわりとすぐに見ることができる。
だけど実際によし蛍を見るぞと思って見てしまえば、結局「蛍だなぁ……」としか頭に浮かんでこない。枕草子もびっくり村上春樹*4もびっくりな情緒もカスもない「わー蛍だー」的な感想しか口から出てこない。ごめんな清少納言。今思い出してみても蛍の風景より蛍見ながら友達と喋ったことのほうがずっと記憶に残っている。ごめんな蛍。
けど、私は年に一度あるサークルの下鴨神社で蛍を見る会がわりと好きだった。それは蛍のおかげというわけではなく、ひとえに下鴨神社という場所のおかげである気がする。夜の下鴨神社というのは、入口から境内がずっと遠くて、糺の森に囲まれた暗い道を通ってゆく。一回生の時にはじめて行った夜の下鴨神社は、妙に雰囲気があって、「おお、私は京都に来たんだな」とちょっと感動した。
下鴨神社には、そういう、「いかにも京都じゃないけどやっぱりなんかこれが京都」みたいな雰囲気が、あって、好き。
七月になれば下鴨神社では「御手洗(みたらし)祭り」がある。あーこのお祭りほんとに京都で一番好きなんだよな。祇園祭よりもみんな御手洗祭りに来てくれ、と京都七年目の人間は思う。*5
御手洗祭りというのは、神社の境内にある池に足を膝まで浸しながら、みんなでろうそくを献灯する、というけったいなシチュエーションを楽しむことができる。七月といえど水はだいぶひんやりとしていて、まるで水飴の中を歩いているみたいな、変な気分になる。みんなで水の中を歩くというのはどうも幻想的というか異界じみてるというか、それこそたぬきが化けてたり妖怪のひとりやふたりいてもおかしくないような、そんなちょっと不思議な雰囲気がある。なんつーかな、千と千尋とかあんな感じ。いろんなものが混ざり合う感じ、山口昌男の本に出てきそうな感じ。楽しい。
ちなみに下鴨神社には、源氏物語の歌が載ってるおみくじがあって、お祭りのついでに友達と引くと楽しい。私の友人は彼女とあれこれあって別れたばかりの時にそのおみくじを引き、見事六条御息所*6の歌を引き当てていた。友人はその歌を国文専修の私に見せて「なぁ三宅これどういう意味?」と聞いてきたが、「奥さんを呪い殺したメンヘラ美女の歌でさ……」とは言えず、なんと説明したものかと困り果てた。まぁそのまま説明しましたけれども。
それから八月になれば、どう考えても古本まつりでしょ。下鴨神社では毎年「下鴨神社納涼古本まつり」を開催してるのだけど、いやもうこれが暑い。本当に暑い。考えただけで汗が出そうなくらい暑い。なんせ八月の京都の野外である。『夜は短し歩けよ乙女』に先輩が乙女を追っかけ回した舞台として、この下鴨神社の古本まつりが出てくるのだが、「こんなに暑い中で欲しい本もないのに追い掛け回すなんて、本当に先輩は暇だったのだな……」と私ははじめて古本まつりへ行った時に思った。京都の夏は蒸し風呂もいいとこ、というかサウナに暖房扇風機かけてオーブントースターでじりじり焦がしました、みたいな「湿度も温度も高いってどういうこっちゃねん」とツッコミを入れたい暑さなのである。しかしそれに加えて神社。蚊が多い。もう一度言う。蚊が多い。大事なことだから太字にしてしまった。まぁ蚊が多いわ日射しは強いわ蒸されるわで三重苦どころの話ではないのだが、そこは古本まつり、やっぱり安くなってるいつもは手が出ないあれこれの本を手に入れるべく奔走しないわけにはいかない。海賊王になりたいワンピースよろしく本の山からじりじりとお宝を探すのである。しかもけっこういい本が売ってあったりして、やっぱりこの世は宝島。うん。これドラゴンボールか。まぁこういうふうにいい本が見つかるから、結局次の年も「暑い……」とげんなりしつつ行っちゃうのだよ。
去年の夏、いろいろとしんどいことが重なって心底疲れ果てていた時、夜ぶらぶら散歩をしていて、ふと下鴨神社に向かったことがある。ひとりで用もないのに下鴨神社に行ったのははじめてだったのだけど、夜の下鴨神社というのはやっぱり妙に暗くて静かで、ひとりでぼんやり歩くにはなかなかどうしてよき場所だった。夜だったから拝殿のとこには入れず、とりあえず引き返してきたのだけど、それまでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるしていた思考が、下鴨神社を歩いてるうちに、すとんと「まぁ、周りに感謝してがんばろう」という至極まっとうな結論に至ったのをよく覚えている。そしてなんとなくその時、私は下鴨神社という場所のことを信頼したのである。
信頼というのは普通は人に使う言葉であると思うのだけど、たまに「場所」に対しても私は信頼できるなと思う時がある。うまく言えないのだけど、この場所があればなんか大丈夫な気がする、みたいな場所のこと。もしかしたらたくさんの人に信頼される場所のことを人は「聖地」とか「神社」とかそういうふうに名付けるのかもしれない。
昔読んだ本で、エリアーデという人が「聖なる場所」ってのはこの世にあるし、それは「いろんなものが帰ってきて旅立ってく場所なのだ」みたいなことを言っていた。些か宗教的な話すぎて寺社仏閣だって友達と喋るために使うくらい俗的な人間にはちょっとよく意味がわからない、と思ったけれど、下鴨神社のことをそう呼ぶなら、なんとなく、わからないでもない。下鴨神社の思い出は線上にあるのじゃなくて、ぜんぶ混ざってしまう。みたいな話。うまく言えないけど。
ともかく、夏の下鴨神社が私は好きである。蚊は多いし暑いけど、歩いてて楽しい場所。京都の観光地だと案外見過ごされがちなんだけど、私は好きなんですよ、ぜひ京都にいらした際はお立ち寄りください、という話でした。
今年ももうすこしすれば、夏がやってくるなぁ。今年の夏も、生きのびましょう。
*1:『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎、講談社)、名作なのでみんな読んでくれ
*2:新歓で「あっこれそんなにリア充する感じのサークルじゃないや」と気づいた新入生はここらへんでリア充観光できる別の観光サークルに行く、という春の風物詩。しかし非リアと非リアが集まるとそこはリア充になるという法則のごとく、意外とサークル内恋愛は多かった。完全に余談だけど。
*3:蛍の茶会なんてものもある。茶会には行ったことないけれど。ほんとに放流された蛍はきれいです。もしこの時期に京都いらっしゃる際はぜひ。
*4:『蛍』という短編がある。あんまり知られてないけど、有名な『ノルウェイの森』の元ネタになった短編小説である。
*5:御手洗祭りの詳細はこちら。