二十歳の春、スピッツのおかげで「怒れる」ひとになった

怒ることが苦手だった。

……というと変に思われるかもしれないが、私はだれかに「怒る」ことが下手だった。

こう言うと、組織における後輩指導、みたいな話を連想されるかもしれない。バイトや部活で後輩を怒らなければいけない場面。けれどそれは「怒るべき場面」がそこにあり、その場面の役割に沿って怒ればよいので、苦手とか言うべき話ではない。それはそれ。

しかし問題はプライベートだ。

他人に対して嫌なことがあった時、腹を立てるよりも悲しくなった。「なんでそんなこと言うんだろう……」と落ち込む。あるいは泣く。あるいは黙る。どうしたらこんな状況にならずに済んだのかなぁ、と考える。

日々をふつうに過ごしているだけでも、他人との不和は避けられない。理解は遠い。基本的に生きることは摩擦を生む。

しかしいちいち腹を立てては、エネルギーが消費されるだけである。明るく楽しくいたい。自分の機嫌は自分でとりたい。他人にイラッとすることがあっても、「こういう人なんだな、近づかないでおこう」と思うか「この人とはこういう話題をしないようにしよう」と思うか、とりあえず自分からささやかな距離をとるのが処世術である。

なるべくご機嫌よくいるという優先事項に比べたら、怒りなんて基本的にどうでもいいことだ。

と、思っていたのだ。

十代の私は。

 

しかし転機は訪れる。

二十歳の春だったように思う。

ある友人が「バイト前に充電器を借りたいから」といって家へやって来たことがある。

彼はバイトの同僚で、割と仲の良いやつだった。ちなみに顔はむかしおばあちゃん家で飼ってた犬に似ている。EXILEの岩田剛典くんをちょっと庶民的にした感じ。

ここで一応彼の紹介をしておくと、基本的に他人との距離が近いやつである。そもそも女友達の家へいきなり「充電させて」と言って来るくらいなもんで、一緒にいると「いやいや仲良くはしてるが、そこまで仲良かったっけ私たち!?」と心の中で憮然とツッこむことが多かった。「普通他人にはもっと気を遣うもんだろ!?」と言いたくなる場面が多々ある。

しかしそういう傍若無人な振る舞いを許してしまう何かがあるやつなのである。こわ。人懐っこい野良犬なんだけどこっちが餌をあげてると懐かれすぎていやでも私きみのこと飼う気はないんだけどと困惑、けど憎めない、みたいなタイプ。要は人たらしっぽい感じ。

そんな彼となぜ私が仲良くなったかと言ったら、ひとえに本と映画の話をするのが楽しかったからである。暇な一・二回生の時、よくマックでだらだらと喋って時間を潰した。彼は理系で私は文系だったからか、本の感想を喋っても「わかる!!!」と叫ぶ割合と「なぜそう思うの……」と怪訝な顔をする割合が半々くらい。でもその意見の相違を喋ることをむしろ楽しんだ。

あえて言うなら、音楽の趣味はことごとく合わなかった。が、私も音楽に対してディープな感想を持つほど知識がないので、そこはスルー。とにかく読んだ本とか見た映画の話をすることが多かった。

 

そんな友人が、私の家へ来て、充電している間いつものように喋っていた。何の話をしていたかもう覚えていないが、いつものようにたわいもない話をした。

すると彼が、ふと、家の棚に目を向けた。

「へえ」と彼は言った。

その視線の先には、私の大好きでこよなく愛するーースピッツのCDが並べられていた。

スピッツ好きなんだ」

うんまぁね、と私は頷いた。あれ、スピッツとか興味もつんだな、もしかしてスピッツ聞くのかな、と私は淡い想像を抱いて「そっちはスピッツ好きだっけ?」と訊ねた。

彼は、ふはっと笑って、言った。

 

「いや~スピッツとか聞いたこともないし、あんまり聞く気になるタイプの音楽やないんよな~~いかにもサブカル系って感じやんか~~はは」

 

言っておくが、いつもならここで会話は終わる。

彼とは音楽の話が合わないのは知っていた。だからこの話はしない。以上、オッケー、処世術完了。「は? ふざけんなよ私の愛するスピッツをそんなふうに」と心の中で思って、「こいつとはスピッツの話をしない」という厳格なルールを頭の中に貼り付けて、付箋を幾重にも貼って、終える。「はいはい」と肩を竦めて、その場をやり過ごす。

別にこいつのことが嫌いなわけではないのだ。たまにイラッとすることもあるが、きわめて仲の良い友人なのだ。さすがの私もスピッツをそんなふうに言われただけで友情に亀裂を入れるような発言をすることは――――

 

あってしまったんだよなぁ。なぜか。

 

「はい? ふざけんなよ」

気がついたら自分の口から声が出ていた。

わりと誰の声だろうこれ、という気持ちになりつつ、口から言葉はするする出てきた。まるでマジックで帽子からするすると飛び出してくる世界国旗のようだった。こんなふうに怒りを誰かにそのままぶつけたのは、ほぼ初めてで、自分でも驚いた。

しかし怒りの言葉は止まらない。

「まずちゃんと曲を聞いても、ない、のに、スピッツをバカにできるくらい、いつ、きみ、は、えらくなったっつーのか!?!?」

ああもうこんな言葉遣いを他人様にしたことがバレたら、田舎にいるおばーちゃんとおかーさまが泣くっちゅーに。たかだか音楽の話なんだから、スルーすればいいっちゅーに。

「だいたいスピッツを好きになれなんて言わないけど、分かろうともしてないものを否定すんのはアホじゃないの!?!? ねえ!?!?」

私は怒った。

だってまじで聞いてもないのにスピッツをばかにできるほどえらいやつじゃないのだ、まじで。まじで。てめえと草野マサムネさまのどっちがえらいと思ってるんだ!?(ああもう思い出しても怒りがこみ上げてくる……ほんとうに……まずこの地球上に草野マサムネさまのことをサブカル系とか言っていい人間なんて存在しないしそもそもスピッツサブカル系とかいう区分が間違っているのではと若干思う……)

 

すると彼は、きょとんとした顔で私を見ていた。私は自分の怒りが通じてないのかと思って、更に腹を立てた。

「私が言ってること、聞いてる!? わかる!?」と私がもう一段階大きな声で彼に詰め寄ると、彼は、「なあ」と呟いた。

彼はきょとんとした顔のまま、言った。

 

 

「今発見したんやけど、きみ、怒った顔がいちばんかわいいね」

 

 

……………。

 

「はい?」以外なにものの感想も出てこなかった。

正直、自分の怒りが通じてなかったのか、っていうかどういう意図でこの発言をしているのか、どういう反応を返すのが正解なのか、まったく分からなかった。だから一瞬言葉に詰まった。すると「いやマジで!」と今度は彼がまくしたて始めた。

「きみいつもにこにこしてるイメージあるし別にそれはそれでいいんやけど、でも怒った顔がいちばんかわいいし、もっと普段怒ったらいいと思うで!」

待て、スピッツは何なんだ、つーか私の渾身の怒りはどこへ向かわせばいいんだ。

「感情を、がーって出したほうが、かわいいで!」

いや待て待て。だからスピッツは。

「あ、スピッツの件はマジでごめん。きみの言う通りやな。たしかに分かろうとしてないのに否定すんのはあかん」

やから、と彼は続けた。 

スピッツ、俺に布教してや。まずはCD貸して、どこがいいか教えて」

お、そろそろ充電できた、と彼はスマホを持った。「そろそろバイト行くわ」と彼は立ち上がる。

そして、「ねえおすすめのCDどれ~?」と、いつものあっけらかんとした声を出して笑った。

 

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結局ハチミツを貸したような思い出が。

 

正直、これが転機だったなんてちょっと認めたくない。というか、そもそも彼氏でもない男からかわいいと言われたところで「だからなんなんだ……」と思うしかない。残念ながら彼は草野マサムネではない。だけどなんとなく、それ以降彼が私を怒らせて喜ぶみたいな小学生的コミュニケーションが成り立つようになり、なんとそこで慣れてしまったがゆえに、私も他人に対して軽率に怒れるようになってしまった。まんまと友人の手中に嵌められた感じがして腹立つが、しかしこれは割と私の人生にとってプラスの出来事だったように思う。

他人に怒るようになったことがプラスだなんて、変だと思われるかもしれない。

しかしのちに気づいたことなのだが、自分の感情というものは、こまめに、軽いうちに、だれかに伝えていたほうが、案外ぶあつい軋轢になりにくい。二十年生きていたけれど、それまで私はこの事実を知らなかった。

「嫌なことは嫌だと言う」ことが大切ではあるが、「嫌なことは気軽に、早めに嫌だと言っておく」ことはもっと大切である。と私は思う。そもそも、少し「これは自分的によろしくないと思う」と言った程度で壊れる人間関係ならばどっちみち我慢ができなくなっただろうし、腹を立てるという行為も気軽にやっておいたほうが、相手にも自分にもメリットは大きい。

そしてそれは二十代も半分に差し掛かった今、プライベートだけじゃなくて、社会で「働く」時も、同じだと思っている。

病気も早めに診断して対処しておいたほうがいいのと一緒で、仕事における人間関係の軋轢も、早めに軽いうちになんとかしておくほうが、我慢が少なくて済む。もちろん自分から距離をとったり怒らないで済む方法を探すのが大人だとは思うし、職場での人間関係で我慢するしかないという場面もあるが、それでも世の中では「怒る」ことが存外に有効であることが多い。

実は、ちゃんと怒ったほうが、舐められない。特に、女性は(もちろん男の人もだろうけど)。

悲しむよりも怒ることは、「戦う」ことにどこか似ていて、自分が正しいはずだという自信もいるし、相手の悲しむ顔を見る可能性もある。怒っていると、むしろ自分が加害者なのか? と思ってしまうこともある。

だけど、感情を相手に伝えること、そのうえで「あなたとちゃんと関係を続けていきたいからこそ、そしてこれは私にとってどうでよくないことだからこそ、今ここで怒っているのである」と言うことは、決して無駄ではない、と今の私は思う。

 

少しの機嫌のよさと、平和な日常を手放すことにはなるけれど。

それでもきちんと誠心誠意「怒って」、どうでもよくないことを手放さないことは、大切なんじゃないかなぁ。

 

 あの日スピッツをバカにした友人と喋ったことがきっかけで、私はそう思うようになった。若干不本意ながら、ですけれど。

 

ちなみにこの話には後日談があって、彼は、まんまと私の布教によってスピッツにハマった(アホかよほんとに)(まぁひとえに私の懇切丁寧なプレゼンの成果である)。そしてそのずっと後、私は「自分の好きな本を布教するブログ記事」を書くようになった。そしてその記事は書籍化することになり、今も私はだれかに好きな本を布教し続けている。

ブログや本の根底にあるのは、やっぱり、あの時「自分の好きなものを分かってもらえない怒り」に気づけたことだったように思う。そこだけは、スルーできない怒りなんだよな。私にとっては。

まさか「何かを分かってもらえない」という怒りが、「仕事」につながるなんて思ってもみなかった。プライベートだけの話ではなかった。びっくりだ。だけど働く際のモチベーションとして、どうしてこうじゃないんだろうという怒り、というのは案外有効……なのかもしれない。それだけどうでもよくないこと、なんだから。

 

 

本が出版された時、お互い大学院生活が忙しくて疎遠になっていた彼から、久しぶりにLINEが来た。「本買ったわ~」という報告。どうもありがとう。そしてそこには、こう付け加えられていた。

「最近、スピッツの『春の歌』のよさに気づいた」

 

あの曲のよさに今更気づくなんて、遅いわ。と、私は、ちょっと怒って、笑った。

 

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