なぜ京大生は無駄話が得意なのか?

いつだったか、森見登美彦さん原作の映画『夜は短し歩けよ乙女』を見た感想として、「すべてが無駄で埋め尽くされており、こんなにも大学生活は無駄なものでいいのかと思った」というものを見かけた。

ちょっとどなたのTwitterだったのか失念してしまったので(もしこれ読んでる方で呟いた方がいらしたら教えてください)、正確な言葉は覚えていない。しかしまぁとにかく「すべてが無駄」という極めてまっとうな感想は、私の心に残った。

まぁ、『夜は短し歩けよ乙女』の世界には就活もインターンも学費のためのバイトも結婚を見据えた恋愛も(たぶん)存在しておらず、まったくもってその内実は無駄としか言いようがない。たしかに。

 

しかし私は思う、京大生って、無駄、もっというと「無駄話」が得意なんだよねぇ……。

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京大に来る前はファンタジー小説だと思っていたのだが、京大に来て知った、あの小説でファンタジーなのは黒髪の乙女の存在だけだ。


たまにネットの海にぷかぷかと浮かぶ京大出身のブロガーさんの文章*1を発見する。読むと、みんな口から生まれて来たのかというくらい無駄な文章が得意だなァと思う。いや褒めてるんですよ。というか「無駄」な話を読ませるのが上手い。技術がすごい。

この「京大出身文筆家は無駄話を書くのがうまい」現象、なんなんだろうと思ったのだけど、まぁひとつは京都大学(「よっ!」という歌舞伎的合いの手を入れてほしい。嘘です。)の教育のたまものではないか、と思う。*2

 

文系の場合、学部三回生くらいからゼミ形式の授業に出る。ゼミは基本的に「自分の発表」(要はレジュメつくってプレゼン、みたいなやつ)を中心にまわる。しかしこの発表だけならたぶんほかの場所でも沢山やっていることだろう。っつーかたぶんほかの場所のが多い。そして私が経験した限り、まともな発表なんてほぼできた試しがない。大抵の学生は、「とほほ」というちびまる子ちゃん的溜息を浮かべて終わる。

そう、重要なのはそこじゃないのだ。

ゼミでは、いつも「他人の発表に対して、なんでもいいから質問」という時間が課せられる。これが学部の時からずっと続く。

大抵、学生がする質問なんてたいした質問がでてこない。「素朴な疑問」とかそういうのが多い。

しかしゼミの先生は、それを「いい質問だね」と言って引き取る。

そして、「きみのその質問と同じような話を、この先行研究がおこなわれていて、その先行研究の文脈の中で、この立場を取ったってことになるんだよ」という風に説明する。そこで私たちは気づく。「いま自分がもった疑問は、既に誰かが研究していて、その文脈の中にあるのか……」と。

そしてこの文脈というもののつなぎ方を、先生から、学ぶ。そうか、己の疑問というのは大抵どこかの人が発した疑問に基づいていて、オリジナルというものはほとんどありえず、誰かがどっかで言ってることなんだな。ならそれを読まなきゃならんな。

そういうふうに、私たちは、文脈というものの存在に気づく。

 

無駄話というのは、基本的に「文脈の集合体」である。それは連想ゲームなのだ。「あれ」があるなら、「これ」もあるでしょ。そんなふうに無駄は積み重なる。ひとつシンプルなことを提示する、というのではなくて、そのシンプルなはずのものに、「こういう文脈でも捉えられるよ」「こういう話もあるよ」と、つなげてゆくのが無駄話というものだ。

大抵京大にいたら、サークルにひとりやふたり「無駄話のうまい先輩」というのがいて、その先輩から私たちは無駄話のつなげ方を、学んでいるとも知らずに学ぶ。そしてその先輩というのも、どこかのゼミの教授や、先輩や、そういう人がオリジンとなっている。

無駄話は伝播する。受け継がれてゆく。いつしか大学に蔦が這うようにしてはびこる。

こうして私たちは、無駄話を学ぶ。

 

ほかの大学にも存在しているものなのかもしれない。でも無駄話というのは基本的に「無駄な時間」からしか生まれない。当然だ。そして文脈というものも、文脈を理解するのにかかる労力やらコストやら時間やらを待てないと、つかめない。

その無駄な時間をゆるしてくれるのが、京都なのかもしれない。と、私は、思う。

*1:phaさんとか熊谷真士さんとか上田啓太さんとかうまいですよねえ。

*2:私がどうかは置いておいてほしい……。