リアルタイムに書けない

恩田陸の『光の帝国』という連作短編小説集の中に、「大きな引き出し」という短編がある。

特殊な能力を持った一家の話で、すごく好きな短編なのだけど、その中に「しまう」という能力が出てくる。

 

彼らは、いろんな芸術や文化を自分の中に「しまう」ことができる。百人一首とか、シェイクスピアとか、楽譜とか。一度「しまって」しまえば、それを忘れることはない、ずっと覚えていられる。記録係のような役目。大人になればそれが「響く」こともある。そんな能力を持った男の子が主人公として現れる。

この話はもちろんファンタジーなのだけど、この「しまう」という表現をはじめて読んだとき、驚いたことを覚えている。

「しまう」って、すごくよく知ってる感覚だと思った。

 

大学1、2回生の時よくひとりでやっていた趣味のひとつに、好きになった長編漫画を繰り返し読んで、どの巻にどのエピソードがあるかぱっと分かるくらいにするという遊びがあった。*1どのあたりにどの話があったか。一度読んでも、覚えているようで意外と覚えていない。何度か読み返してはじめて、漫画全体の構造がぱっと頭の中に入る。

そして、それくらい何度も読み返すと、自分の中にしっかりその漫画が入った、という気になる。

『光の帝国』の「しまう」という表現を読むたび、この感覚を思い出す。小説にしても漫画にしても歌集にしても、一度読んだくらいだと「はー面白かった」という感想のみが残る。だけど何度も読んでそのエピソードや構成みたいなものを覚えると、「自分のものになって、もう引き出しにしまい終えた」気分になる。

なんだろう、ジーンズを何度も履くと自分に合うようになる、みたいな? 

 

 

「読む」から翻って「書く」を考えてみると、これと同じ作業を自分の記憶についてしてるように思う。

書くことで、私は記憶を自分の中に「しまって」いるのだ。

 

 

覚えているという段階において、記憶は鮮明だけど曖昧だ。ぼんやりと今にも色が消えてしまいそうで、いつなくなるかも分からない。まだ色をはっきりと塗っていない下絵みたいな。編集されていない撮りっぱなしのフィルムみたいな。

だけど、いちど記憶を「書いて」しまうと、それは完全に色味も場面も音も形も固定される。するともう鮮明で捉えどころのない感情や感覚ではなくなって、それに名前がつく。文章という容器に瞬間冷凍する。ぼんやりとした「記憶」からひとつのエピソードである「思い出」に変える。体の中に、しまってしまう。

風景を絵に描く、みたいな作業と似ている。その思い出や感情に対して、塗る色を決めたり、線をはっきり決めたり、そういうことをしてはじめて、風景はきちんと形に残る。

 

覚えているものの、どこにもしまい終えていない記憶を、ひとつの文章にして自分の中に「しまう」。

だからこそ、私にとって「書くこと」は「終わらせること」だ。

 

逆に言うと、いま現在自分の身に起こってることを書くのが苦手。いま現在起こっていることは「しまう」ことができない。まだ落としどころが見えていないものは。書けない。

まだどうなるか分からないことはずっと脳内の「下書き」フォルダにある。文章はいくらでも脳内で組み立てられるけど、公開できない。私にとってリアルタイムに現在起こっていることは、人に見せる文章にできないのだな。と、最近気づいた。

「自分の中で結末が見えたもの」とか「どういうオチになるか分かったもの」になってはじめて、書こうと思える。

 

ってそんなブログ論みたいな話でなくとも、たとえばツイッターで「いま誰かとご飯を食べている」とか「いま作業が終わった」とか、そういうことを書くのが苦手だ。あくまで考えたこととか思ってることとか、ふんわりしたことになってしまう。具体性を伴うのは、終わってから、とどこかで思っている

日常生活でも、人に相談することが少なくて事後報告のほうが多いし、そういう性格なんだと思うんだけど。

 

 

 

書けば、もう記憶を思い出にする作業を終えて、終わりが来るんだなあ、と思う。

 

落としどころを見つけるというのは、なくす心配がない一方で、鮮明な記憶そのものではないので、少しさみしいっちゃさみしい。

だけど私は書いて、いろんなことを終わらせる。そんでまた新しいネタを見つける。そうやって色んなものを、色んなとこに、「しまって」生きてるんだなあ、とぼんやりと思う。

 

ま、終わらせることより忘れることのほうが怖いので、書いちゃうんだけど。

 

光の帝国 常野物語 (常野物語) (集英社文庫)

光の帝国 常野物語 (常野物語) (集英社文庫)

 

 

*1:今思うと「きみ暇だったんだね……」という感想しか浮かんでこない趣味だけど。このあたりで読んだ漫画も本も、本当に台詞から何からよく覚えている。おそろしい。

自分が大人になるだなんて知らなかった

萩尾望都の『10月の少女たち』という短編集が大好きである。

 

短編集といっても、小学館文庫が初期作品を集めて出したものだ。『精霊狩り』とか『みつくにの娘』といった「いかにも萩尾望都」なファンタジーやSFめいた傑作も収録されているのだけど、どちらかというと表題作である『10月の少女たち』や『十年目の毬絵』のような、日常的な物語のほうが好きである。これは完全に好みだけども。私はSFやファンタジーのような「別世界」モノへの萌えが薄いんである……。

で、表題作の『10月の少女たち』は、3つの物語をひとつの読み切りとして出している(というわけで1つのマンガが7ページくらいだったりするのだ、こんな芸当ができるのは日本で星新一萩尾望都くらいしかいない……)。「ねえキスしたことある?」と幼なじみの男の子に笑いかける女の子の話、がさつな少年が家に泊まることになって困惑する文学少女の話、結婚しないかと持ち掛けられる女性の話。一見何のつながりもない物語たちなのだけど、そこには通底する声がある。

「自分が大人になるだなんて知らなかった」

 

 

ずっと、若いっていいねえ、と言われることに違和感があった。

いやもちろん私なぞもう若くないだろというツッコミはあると思うのだけど、まぁしかし社会の中では10代から20代前半くらいまでは「若いしいい年頃」くらいに思われている、気がする。

最近は「若いって枠組みに入るんですね私……」くらいのテンションなのだけど、10代のうちは違和感しかなかった。

若いっていいか!? ほんとに!? こんなに権力もなけりゃ立場もなく何も成し遂げてないのに!? と心から思っていた。

からしたら、何かを積み上げ終わっている(ように見える)大人たちのほうがよっぽど羨ましかった。もちろん今となっては、大人だって積み上げられたものもそのために犠牲にしたと思っているものもあるし、自分では積み上げられていないと思っている大人だっているよな、と分かる。けど子どもだった自分からしたら、年齢を重ねているだけでそれは「積み上げることができている人」に見えた。実際、何らかの立場をもって私たちに接しているわけだし。

 

まぁ、「若いっていいねえ」の言葉の大半はお世辞だし(だって若い子に若いって最悪ねえ、なんて言うやつなんて大人ではない)、百歩譲ってお世辞じゃない気持ちが含まれているにしたってそれは「未来があっていいねえ」と「初々しいっていいねえ」くらいの気持ちだろう。

初々しいのほうが置いておくにしても、未来があっていいねえ、という言葉については、未来があるって知ってるのは大人だけなんだよな……と思う。

 

つまり、人はたいてい同じ場所にはいられず、時間が移り変わるとともに場所を変えてゆくものなのだ、と大人は知ってるのである。

 

 

最近読んだ『白い坂』という歌集に、こんな歌があった。三宅奈緒子さんという歌人の歌である。

  ひらけゆく未来など信じ難ければ胡桃の花をふみ帰るべし(「胡桃の花」)

奈緒子さんは女子高の教師をしていて、この歌も女子高生のことを歌ったものだろう。というのも、おそらく教師である奈緒子さんが、女子生徒たちに「ひらけゆく未来」なんて言葉をかける場面がある。だけど先生にそう言われたところで、女子生徒たちは「ひらけゆく未来」だなんて信じない。信じることが難しい。自分にひらけゆく未来があるなんて、知らない。そんなことを考えながら、拗ねたように彼女たちは胡桃の花をふみながら帰る……そんな歌だと私は思う。

この女子生徒の感じ、よく分かる。昔は「若いっていいねえ」とか「未来がひらけてるね」なんて言われるたびに、「ばかやろう未来なんかひらけてるかよ」とクサしたくなっていた。自分に無限の可能性が広がってるなんて言われても、ならはやくその可能性を終えた将来をくれ……としか思わなかった。

はやく階段すっとばしてえ~~~~と。

 

だけど実際に、ちょっとずつ大人になってみると、「うお、本当に自分は大人になるのか、まじか、そうか……」と戸惑い交じりの動揺が湧き上がる。

 

なんだか大人になるたびに、昔ただの可能性だと思っていたものが、ひとつずつ、形になっていく。

気がつけば去年は親戚のお姉さんの結婚式に1回行っただけだったのに、今年になって4回も結婚式にお呼ばれしている。同級生が結婚式を挙げる年齢になってしまった。

自分は自分のままだけど、いつのまにか同級生はサラリーマンになっているし、結婚とかし始めるし、なんなら自分もいつのまにか社会の一員ぽくなってるし、たぶんこのまま年齢を重ねてゆくんだろう。

こないだなんて、大学の時の友達の結婚式なんかがあって、「こ、こないだまで誰かの家で缶チューハイを飲んでた友達が、人様の夫に……」としみじみ思ってしまった。ふ、扶養家族のとこにマルをつける身分になっている同級生……。

 

 

自覚なく大人になるなんて本当は嫌で、今自分が何をしておくべき時期なのか? 何を積み上げているべきなのか? ってずっといつも考えている。実践できているかどうかは別にして、年齢を無駄にしたくない、っていつも思う。

はやく進めたい、次にいきたい、って。

だけどそれでも、いざ現実を見ると、「ほんとうに人って同じところにはいられないんだなあ」と思う。

 

私たちって、ほんとにあの時、ひらけゆく未来を持っていたんだなあ、と。

 

ずっとみんなで缶チューハイを飲んでいられるなんてそんな能天気なことは思っていなかったけれど、でもやっぱり缶チューハイの代わりにウェディングケーキを一緒に食べる日が来ることはまじで知らなかった。

いやー知らなかった、よねえ。

 

大人になりたくないだなんて、そんな言葉を発することすらできない、自分になってしまった。

 

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『ワンダーウォール』の渡辺あやさんのエッセイが素晴らしすぎて思いのたけを綴ったら長文になってしまった

ある日、三条で人と会った帰り道、丸善にお目当ての本を買いに寄ったら、まったくお目当てではなかったはずの『ワンダーウォール』のシナリオ写真集を買ってしまった。

 

 

seikosha.stores.jp

 

とくに買う気はなかったのになぜ買ってしまったかって、私が崇める渡辺あやさんのシナリオ全文が載ってたのと(いいもん渡辺あや研究するもん、ってそれ趣味ですが)、書き下ろしていたエッセイ「命と壁と場所」が異常なまでに良かったからです……。

 

 

ワンダーウォールについてはこちら。

www.cinra.net

 

 

そんなわけで渡辺あやさんのエッセイは、ちょっと2018年読んだなかで一番の名文だったのですが。

 

何が名文って、私が今悩んでいること、葛藤していること、そのまんま文章になっていたからなんだと思う。

 

 

なかなか読める人が多くないと思うので、内容について少しだけネタバレすると、エッセイは、彼女の住む田舎の町で「いったいなんでこんなに人が自殺するのだろう?」という疑問を持ったこと、そして「不経済である」という理由で淘汰され死に絶えてゆく様々な場所のこと、だけどなかなか個人は勝てないこと、そしてその想いをいかにこのドラマに託したか、ということについて綴られている。

そしてこのエッセイに、ドラマのモデルになった寮の名は出ない。このドラマもまた「壁に囲まれている」のだと渡辺さんは最後に述べる。

私は吉田寮(べつに個人が言っても大丈夫だよね!?)に対してそんなに思い入れはなく、潰そうという機運が高まっていると聞いた時も「えっなぜ」と怪訝な顔をしたくらいで終わった。住んでいたこともないし、何人か住んでいる友人がいるけれど、京大生の変人イメージに一役買っている場所、という印象くらいしかない。

だけど、渡辺さんがおっしゃることは、とても、とてもよく分かる。

 

寮じゃなくて、「文化」と「経済」について私はここ一年くらいすごく考えるようになった。

自分が身を置く大学をめぐる環境、自分が好きな文学研究や小説や文学をめぐる環境、そしてなによりも「自分の中での文化と経済」の折り合いが、いまだに、ずっと、ずっと着かないのだ。

 

自分が関わる文学研究や小説や文学といった類のものは、「不経済」に分類される。よく分かる。食べていけない。お金を稼げない(はは、シャレになりませんね)。どう考えても文学研究、お金を生み出す類のものじゃない。文科省から予算を削られるの分かりまくる。

それでも「価値」はある、と私は心底思っている。だって過去の文化が残っていない文化は、過去がなかったものと同じだ。民族や共同体として積み重ねられてきた知識や感情や思想、そのうえに私たちは生きている。歴史があって、時間の洗礼を受けてきたこと、そして残してきたこと、それ自体がその共同体のアイデンティティになる。それを誰かが残そうとして理解しようとしないと、使うことも保存することも叶わない。

でももう国にお金がない中で、文化を守ってられるほどの高潔さなんて残ってないのは、分かる。アイデンティティよりも明日食べてくことが大切なのだ。吉田寮の問題だって同じなのだろう。寮の維持費を出せるほどのお金が大学にない、あるいはそれに抵抗できるほどの元気が大学側にない。

それでも、文化はいったん消えたら終わりなのに……と思う自分もたしかにいて、そのせめぎ合いは、自分の中での私的なせめぎ合いでもある。

 

要は、

資本主義に、勝てねえー!!!!

ということである。文化を維持するのは、ただでは、ないのだ。

 

いや、文化の維持に場所なんて必要ない、文化の恩恵を受けた人々が記憶し、その存在そのものが文化の証だ(たとえば吉田寮の建物がなくなっても、吉田寮の思想や精神は残るだろう、ということ)と言う人もいるだろう。たしかにわざわざ過去を確認しなくても、私たちの地層には過去が埋まり、言葉には過去が潜む。だけど本当にそうなのだろうか? 忘れられたら、消えてしまうのではないのか? その文化の証としての場所や作品が残らなくては、その記憶や、そして文化は、いずれ消えてしまうのではないだろうか? 

きっと、多くの少数言語や少数民族の芸術がそうだったように、弱肉強食で忘れ去られるものなのだろうけれど。忘れることは、掘り起こさないことは、それでいいのだろうか。

 

渡辺さんも、町の小学校が廃校になったことについての葛藤を綴る。

まあしょうがない、自然淘汰なのかもしれない、母校でもないしな、などとあらゆる方便で気持ちをおさめようとし続けている。だけど数年経って、やっぱりそれがいかに残酷な、致命的な出来事だったのかを確かめさせられるようにその後の日々を暮らしているというのが、どうまぎらわせたところでやっぱり正直な実感なのだった。

 

朽ちてゆくもの。なくされてゆくもの。一度なくしたらもう取り返しがつかないもの。

それが私には分からず、やっぱり何も取り返しなんかつかないし、なくしたらそれっきりだろうし、だけど現状は進んでゆくし、時間はどんどん前に進むし、変化をおそれてちゃ何もできないし、結局どうにもこうにも結論が出ないのだ。

 

 

誰が悪いというよりも、優先順位が何によって決められるのか、誰にとっての大切なものが残るのか、という問題なんだと思う。そして結局この世は大切なもののために戦うしかなくて、大抵の場合負けて終わるだけの場所なんだな……と暗澹たる気になる。負けたくないなら勝ち馬に乗じたり、コウモリになって勝ち側の方法を盗んだり、まぁ、そういうことをするしかないように私には見える。そしてそれは非常に面倒で不誠実かつ孤独な行為であり、多くの場合に積極的にやりたい美しい方法ではなかったりして、切ない。もうほんと本屋がアレな本で保ってる話とか、みんなそんなに責めないであげてよ! この世はきれいごとじゃないんだぞ! と私は心底思ってしまうよ。

というわけで、自分の中で今最も折り合いがつかないところを、すごく的確に(もちろん問題の規模は違うけれど)文章にしてくれていて、泣けてしまったのでした。最後の、ある種の励ましのような、言葉も。

 

 

渡辺あやさんは、『ワンダーウォール』について、こう述べる。

大切な場所と、それを奪おうとするものの正体、そして守ろうとする人々の気持ちのことを書きたいと思った。

 

とてもうつくしい物語だったと思う。うつくしくて、切なくて、結局答えはどこにもなくて、自分でなんとか探してゆくしかない、のだった。

 

「人文学って何の役に立つの?」って聞かれた時の最適解 ――シェヘラザード・サバイバル・大作戦

今も昔も、私の「理想の女」はシェヘラザードだ。

話が面白いから殺せない女になりたいのである。

 

バートン版 千夜一夜物語 第1巻 シャーラザットの初夜 (ちくま文庫)
 

 

のっけから何の話だと思われるかもしれないが、シェヘラザードというのは、『千夜一夜物語』に出てくるヒロインのことである。

千夜一夜物語』(通称アラビアン・ナイト)。どんな話かってーと、

ある国に王様がいる。で、この王様、奥さんに不倫されてしまったがために、毎夜ひとりずつお嬢さんと寝て殺すことを繰り返す暴君になってしまった(ド迷惑である)。そんな中ある娘シェヘラザードは、自ら王の寝所へ行く。そして彼女は、王様に自分の知っているお話を聞かせる。その話が異様に面白かったがために彼女を殺すことを忘れた王様は、夜が明けても「はよ次の話をせんかい」とせがむのだけど、シェヘラザードは「次の話はもっと面白いけれど、続きは明日ね」と囁くのみ。そうしてシェヘラザードは毎夜王の寝所で話をし続け、千夜明けたころには、王は彼女を殺す気はなくなっていたのであった……。

という物語集が、『千夜一夜物語』なのである。

この、シェヘラザードが語ったお話のひとつが、有名なアラジンの話や、シンドバッドの話なんですね。

憧れるよねえ、シェヘラザード。この話をはじめて知った小学生の頃、私もシェヘラザードみたいになりたいと思った。しかし今も昔もエピソードトークが下手な私はまちがいなく一晩で殺されてしまいそうである。うーむ。

 

 

そんなわけで、全然関係ない話なのだけど。

最近「それって何の役に立つの?」という言葉についてしみじみ考えている。

 

日々、小説を愛でつつ大学で文学研究なんてやっていると、「それって何の役に立つの?」という素朴な言葉からは逃れられない。

もっというと、「人文学って大学でやる意味あるの?」という問いに答えられなくちゃいけない。

なぜなら大学は税金が注ぎ込まれてできる場所だからだ。

 

「人文学って何の役に立つの?」という問いについて、「研究は役に立つ立たないなんて関係なく、自分の知的好奇心のためにやってるんだよ!」と答える人がいる。そりゃ本心ではそうだろう。

だけどその返答は「その人」にとっての意味であって、「税金」にとっての意味ではない。と私はしばしば思う。いやいや答えになってねえ、とツッコミたくなる。

あるいは「役に立つ立たないなんていうアホな質問はやめたまえ、私たちはそんな功利的なもののために研究しているわけではないのだ、もっと大きな問いに従事しているのだ」と答える人がいる。

そりゃあ研究する一番のモチベーションはそうですよ。あたりまえじゃないですか。問いの答えを知りたいから研究する、以外の答えなんてない。

だけど「役に立つ立たないなんていう議論がおかしい」って返答は、「だから税金をきちんと大学にください♡」の理由にはならない。残念ながら研究にはお金が必要であり、そのお金は今のところ自分のポケットマネーでもなんでもなく、もはや私くらいの同級生たちが働いて新卒の安い給料からなぜか異様にとられる税金によるもんなのである。そりゃまぁその人たちに還元できる答えがないとあかんわ。(そもそも院生のポケットにマネーなどない)。

正直、ここで「人文学は何の役に立つのか」なんて議論をするには、おねーさんそれはちょっと問いの立て方が雑すぎるよ(だって哲学と歴史学と文学が同じ役の立ち方なわけがないじゃないか)と思っちゃうし、私ができるのはせいぜい「日本の古典文学研究は日本にとってなんの役に立つのか」という話くらいだ。ちなみにこの問いに関してはうちの先生の完璧な解答があり、私はいつも先生の言葉を引用している(ちゃんと「受け売りですが……」って注釈付けてますからゆるして)。

そして「何の役に立つの?」って聞かれた時、人文学を研究する一人一人が、ひとつひとつの分野について答えを提示してくしかないんだな、とも思う。

 

「説明のための言葉」が必要なのだよな。

生き延びるためには。

 

 

 

つまり何が言いたいかって、そろそろ「それって何の役に立つの?」と聞かれたときに「そんなバカな質問をするのはやめたまえ」という王道の人文学的返答をするのは悪手ではないでしょーか……。という話である。

こんなことぺーぺーの院生が言うなという話だけどさ……(怒られたらどうしよう)。

 

そもそも「そんなことも知らない」相手をバカにして「知っている」自分を上に置く、という手法は議論の王道だ。私たちはそれを勉強するまで、勉強の価値を知らない。研究も同じだ。きちんとやってる人にしか本当の価値や意味なんて分かるはずがない。いや研究だけじゃなくて、どんな分野の仕事も同じだろう。

だけど、だからって「役に立つとか立たないとかいう次元の話をしていないのだ、そんなバカな話をするのはやめたまえよ」と言ってしまえば、いよいよ「ち、近寄りたくねえ」と思われるほかない。

もちろん「なんの役に立つの?」って言葉、こっちをバカにしてるみたいで腹立つけどさ、そりゃ。でもそんなとこで怒ったってしゃーない。

そうじゃなくて。

「何の役に立つの?」と聞かれたときに「こういう面白い話ができるくらいには」ってひとつ話を披露できるくらいの力を持っておきたいな、と私は思うのだ。

そんで「何の役に立つか」という問いを忘れさせ、「へー、人文学って面白いんだなー、もっと続きの話を聞きたいなー」と思っていただく人口を地道に増やすこと……が、草の根運動的にできる最適解ではないだろうか。

 

つまりは、シェヘラザード大作戦である。

わかりますか、「殺すには惜しいな、もっと話を聞きたいな」と思わせるアレである。

私たち人文学系研究者(見習い)は、みなさん(暴君でなくてもよい)に、「この分野の続きの話を聞きたいな、殺すには惜しいし、もうちっと生かしてやるか……」と思っていただく技術を身に着ける、のが、明日を生き延びるギリギリ・サバイバル・メソッドなのではないだろうか。

だってその話の続きを語るには、研究が進まないといけないからさ!!!(切実)

 

「研究をひらく」とか「外向きに動く」とか、言うのは簡単で、実行するのはめちゃくちゃ難しいのだけど。だって実際アインシュタインの研究なんて意味わからんしさ。だけどそれでも、私たちは生き延びる手立てを見つけるほかない。

アラビアン・ナイトもびっくりな世知辛い世の中であるけれど、ひとつひとつ「面白い話」を増やしてゆくのだ。

 千夜が終わるには、まだきっと早い。

 

 

 

そういえば大昔、私が今と違ってまだいたいけで世慣れていない幼稚園児だったころ、母親に「どうしたら友達ができるかなあ?」と聞いたことがある。

すると母は「あなたが勝手に好きな絵を描いて楽しそーにしてれば、自然と絵が好きな友達が寄ってくるし、楽しそうだなーと思って絵を描く子も増えるよ」と言ったのだった。

今も完全に戦法は同じである。こわっ。三つ子の魂、ひとまず二十四年目も続行中である。

こちらにたっぷり蜜を用意し、「あー文学ってすばらしい」とひとりでにやにやにこにこしていれば、勝手に仲間は増えてくだろう……というのが私の基本スタンスである。そんで聞かれたら「こんな面白い話があってね……」と語り始める。これからもずっとそうしていきたいな、と思う。

もちろんできるだけそれが、ほんとうに面白い話であることを願ってやまないのだけど。

 

 

万能素敵サブウェイ先生(との思い出)

誰しも人生で一度は思ったことのある事実だと思うけれど、なぜいい感じに人が少なくてのんびり長居できてそんなに値段が高くない喫茶店というのはすぐになくなってしまうのだろう。

いやほんとに。何の話かって、百万遍に電源のあるカフェがほしいって話ですよおねーさん……。

 

話はずれるそれにしてもこの「電源がある」って表現、定着しましたよねぇ。十年前はなかった表現じゃないか。考えてみると電源なんてどこにでもあるわけで、客が使うことのできるコンセントのみを「電源」って言うだなんてちょっと不遜だとも思うけど。しかし「電源のあるカフェ」って言いやすいし分かりやすいんだよねえ。「コンセントのあるカフェ」ってそれこそ「コンセントはあるけど使えるかどうかわかんないよ!」と返したくなるというか。

更に話はずれてどうでもいいことなんだけど、今「電源」の項目をwikiで調べてそこに「ソケットとプラグ」っていう説明があったので「ソケットとプラグ」をグーグルで調べたらこのようなYahoo! 知恵袋がでてきた。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

この世にはなんでも質問したがる人というのがいるものだし、なんでも答えてくれる人がいるものであるよ……。

 

 

というわけで大学の近くでパソコンを使った作業をするとき、いい感じで使えるお店が少ない。私は普段研究室で勉強してるのだけど、cakesやらなんやら勉強以外のものを研究室で大っぴらに書くのが微妙に躊躇われる*1習性があって、パソコンで作業できる空間がほしい。となると選択肢は、大学の附属図書館か、家か、どっかのお店。しかし「家でやったら確実に寝る……」という時や、大学の試験期間などにかぶっていて図書館が使えない(試験期間の図書館は行くもんじゃない、人が多すぎる)時は、やっぱりどこかお店に行きたくなってしまう。

あとやっぱり「お金を払ったんだからやるぞ!!!」という自分への圧って必要ですよね、時にはね……。

 

思い出話をすると、百万遍(大学のすぐ前の交差点)にも、1年ほど前まではサブウェイがあった。愛を込めて大文字にする。お野菜のたくさん入ったサンドイッチを作ってくださるあのお店のことである。人がそこまで多くなくちゃんと電源もありそこまでお値段の高くないサブウェイを私はひそかに溺愛していた。

大学生の多い場所にあれど、サブウェイはマクドナルドほど安くないのでそこまで混んでいなかった。お昼時はすこし列ができるくらいに人がいたのだけど、それ以外の時間はおおむねいい感じに人がいていい感じに人がいなかった。なんつーか、人のいる割合が絶妙だったんです!!! うるさくないけどしんとしてるわけでもなくて!!!

サブウェイは意外と飲み物だけだと安いし(300円くらい。マックより高いけどふつうの喫茶店より安い。あと事前に買っておく飲み物チケットがあると200円くらいで飲めた)、サンドイッチをお昼ごはんにするにしてもなんか野菜がとれた気分になれたしそもそもおいしかった。味が異様に好き。

まぁ長居するのでそんなにいい客ではなかったのだけど(ごめんなさい!)、去年出した本の作業はわりとたくさんサブウェイでやったし、それ以前も図書館が開いていないときの院試の勉強やら、卒論やら、レポートやら、研究室に机がなかった時代の勉強やら、わりと思い出がいっぱいなのだ……。ちなみにおもいでーがーいーっぱーいって曲1995年なんですよ知ってましたか。

 

なのだけど、悲劇は去年起こる。まさかのサブウェイ閉店。まじかよ。唐突だった。しかもたしか9月末で、ちょうど私の本が発売される5日前だった(ちなみに私はこういう詳細な日にちをことごとく記憶する女である)。

あなたに読んでほしくて頑張ったのに!!!! とは言わないけれど、それにしてもサブウェイでたくさんの作業をしたのに!!!! 完成を待たずして!!!! いなくなるなんて!!!!! 

ああ、もっとお金を落としておけばよかった。って私がすこしくらいサンドイッチにおまけのフライドポテトでもつけたところで経営はよくならなかっただろうけれど。

受験勉強の結果が出る前に学校を去ってしまった先生を見るような気持ちで、私はサブウェイとの別れを惜しみ(とはいえ本が出る直前って実はそんなに作業することなくてあんまりサブウェイへ行く用事がなかったことを覚えている)(私は別れを惜しみたいがために用事なくわざわざ食べに行くなんてことはしない……)、そこに何ができるんかと思えば、サブウェイの跡地にできたのは

ケンタッキー

であった。

いやいや吉野家松屋すき家もあるしマクドナルドもラーメン屋(しかも当時2軒)も餃子の王将もカレー屋さんも居酒屋もあるこのジャンキー・百万遍で、これ以上油で揚げたシロモノを増やす必要性がどこに!? と、私は本気で目を疑った。が、後任の先生(ケンタッキー)は前任の先生(サブウェイ)なんてあたかもいなかったかのようにさらりと教室(百万遍)になじみ、百万遍のジャンキー度を無事上昇させている。一度か二度行ってみると、留学生の利用も多く、流行りのグローバリズムに対応した有能ボーイだ。しかしいくら学生がいるからって、交差点の四隅のうち三つにそれぞれ牛丼屋がある百万遍ってどうかと思いませんか。

ケンタッキー先生はエネルギッシュな有能ボーイなので(教科で言えば英語って感じ、たぶん大学でウェイウェイとしたサークルを楽しみながら教育学部を卒業したのである)(サブウェイ先生はもちろん生物だ)、ちゃんと前任の先生から引き継いだコンセントもそのまま置いてくれている。

だけどケンタッキーのフライドチキンをいつも食べたい! とはならず、さらにサブウェイと客層が違ってしまい、コンセントのある席付近にちょっといづらい感じなのだ……やっぱり先生がちがうと集まる生徒が変わってねえ。そして現在、私はケンタッキー先生をたくさん使うわけでもなく、電源をさがして三千里なラスカル状態になってしまった。

 

そもそも学生街なのに(だからか?)、ドトールやスタバといったチェーン店系喫茶店がひとつもなく、電源のあるお店が極端に少ない百万遍に愛の手を。このブログを読んだ喫茶店経営者さんが「よし百万遍に店を出そう!」と思って下さることを私は期待しておきます。

マクドナルドほど狭くなく、からふねやほど高くない、そんな私に都合のよいお店ができてくれることを切に願っております、ええ。ひとつたのむよ!

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サブウェイ先生との写真をさがしたらこれしか残ってなかった。雪の日だったので窓から雪の景色を撮ったのだがその下半分にサブウェイがうつりこんでいた。



 

 

しかしあれですね、新しいひとを募集するときに前のひとの思い出を語るって完全に悪手ですね。

*1:別に勉強以外のことをしてたら怒られるとかではないです、念のため! でもなんか自分の気分として抵抗あるというか、単に気分として場所を分けたくなってしまう。なんとなく。

キャラを分けたい2018

ああ、ペンネームがほしかった……。と、ぶっちゃけ5分に1回ほど思う。

 

いや、ちがうのだ。「三宅香帆」という名前に不満があるわけではない。というか三宅香帆という名前自体は私はわりと気に入っている。読み間違えられないし。ええんちゃうのという感じである。

そういう話ではない。

24年間生きてきて、現在インターネットするにしても研究の発表をするにしても大学の友達と話すにしてもおばあちゃんと電話するにしても、基本的には「三宅香帆」のものである。三宅香帆は日々インターネットに10年後見たら目を覆いたくなるような乱文を残し、あまつさえその記録をtwitterだのfacebookだので律儀に毎度ご報告している。いま三宅香帆(身体)が死んだとしたらおそらく今後最も生き延びる自分は23~24歳の三宅香帆であろう。

が、いまこうしてぶんしょうを垂れ流している私は、三宅さんではないのである。

こういうと混乱してくる。日本語が伝わらない。しかしこれは本当なのだ。私は三宅さんではない。

 

――小さなころから、私の中には二人の私がいた。

 

……なんて書くと下手なB級小説(いやC級くらいだな)が始まりそうだが、別に二重人格とかという話でもなく、「三宅って二種類いるんだよなー」という感覚は昔からぼんやりとあった。

どうでもいいですがジュディマリの『小さなころから』って名曲ですよね。

 

混乱を避けるためふたりのことを三宅A、三宅Bと名付ける。彼女たちは姉妹である。

三宅香帆A(姉)は、昔から人といるのが好きなのだが、わりと性格は悪い。というか人を見て戦略を立てるのが好きなのである。しかし基本的なところでぼんやりとしているためその性格の悪さが意外とばれないことが多い(たぶん)。日々とりあえずにこにこしてようと思っており、自信家というかナルシストかつ見栄っ張りである。

三宅香帆B(妹)は、昔からピュアっピュアで、ロマンチストで、陰気で、感傷的である。将来については異様に楽観的であるが、自分に対しては自信がなく、被害者意識に苛まれやすい。常にぼけーっとしているため、物事へ反応するテンポが遅い。さらに情緒不安定なので気分の上がり下がりが激しい。

……説明のために書いた性格説明だが、こう書くとまじで下手な小説の登場人物プロットのようだな。うーむ。

 

まぁ本題に戻ると、基本的に人といる時の三宅はAが担当する。しかし文字を書くときの三宅はBが請け負っているのである。自分業務の中で、Aは外交担当、Bは内省担当、と言ってもいい。

Aが日々三宅として活動してきたところ、これまでBはもそもそと何をしてきたのかというと、主に「小説を読むとき」に登場していた。三宅Bは14歳くらいからあまり成長しておらず(というより「自分の中で14歳の自分を凍結している」という表現のほうが近い)、ロマンチストで陰気なままである。そのため三宅Bはひたすらに物語の摂取を望む。ふだん私が小説を読み続けるのはBへの栄養補給という側面が大きい。

だからこそ、自分が文章を書くとなった時も、Bがのそのそと出てくる。Aはその間基本的におとなしく引っ込んでいる。Bは暴走が激しいため、少々小っ恥ずかしいお話でも書いてしまう。しょうがない、Bは子どもだから。

しかしBが思いの丈を綴ったままだと、文章としてあまりにひとりよがり過ぎたり、いろいろと自意識がそのまま出ていたり、具合が悪いことが多い。そのため大抵、翌朝になって出てきたAがBの書いた文章を添削する。AがBに向かって「おいこの文章はまずいぞだれかを傷つけるぞ」とか「おいこの文章はあまりにも自意識が出すぎだぞ」とか「ばかやろうこんなこと書いたら嫌われるじゃないの」とか文句をつける。

しかしこの際、Aの意見が通るのは3分の1ほどである。Bは自信がないため渾身の文章を削られても黙っているのだが、AはなんだかんだBという妹がかわいいがため、「しゃーない、ちょっとアレだけど、まぁこの文章は残すか……」と思ったりするのである。Aはこう見えていいやつなのだ。性格は悪いけど。

 

私の文章は基本的にBが執筆担当、Aが添削担当という構成で成立している。論文を書くときもブログや書評を書くときも一緒だ。Bに暴走させ、Aが止める。あくまで作者はBだ。

そんなわけで、大学の友人に「三宅の文章を読んだよ~」と言われると、「いやちがうんだよアレを書いたのは、君の知ってる私(姉)じゃなくて(妹)なんだよ……!」と言いたくなる。書いたのは君の前にいる私じゃないっ。しかし頬を引きつらせながら私は「ありがとう……」と曖昧に笑う。

 

余談。この話だけでも十二分にアブない話だけど(※ちなみにこういう文言を付け加えるのがAの仕事である)、もっとアブない話をすると、自分の心の中には「少年だった場合の三宅(12)」とか「まだ若いつもりの老婆である三宅(72)」とか「少女時代の三宅(11)」とか6歳くらいから70代くらいまでの自分が住んでいるという感覚があるのだけど、まぁそれは本題とずれるため話は割愛する……。物語を読みすぎると様々な人格が生まれるのがいいところですね。

 

そんなわけで、長いあいだ、AとBはなかよく役割分担してきたのである。仲良し姉妹であり、ふたりはうまくいっていた。うまくやってきたのだ。

これまでは。

 

しかし最近、具合が変わってきた。本格的に大学院生活を過ごすにつれ、人と話す時間が人生の中でこれ以上ないくらい極端に減った。こうして「三宅香帆」としてあれこれ文章を書く機会も増え、歌を読んで論文を仕上げなくてはならない。こうして日々、研究に文章に打ち込むうちに……最近、あまりに、三宅Bの存在感が増してきているのである。

これまで、小説を読んだりするときくらいしか出番がなかったのに! まじかよB。いきなり労働時間が増えたよB。

すると、こうなって拗ねるのは、Aである。ここ1年三宅本体がひとりでする作業が増え、Bが稼働しっぱなしであるため、Aはマジ暇なのだ。これまで様々な外交を引き受け、ほぼ働きっぱなしだったのに。ずっと人生を請け負ってきたのはAだったのに。Aの全然仕事がなくなってしまった。ワーキングプアもといニートである。おとなしくしてるしかない。

するとどうなるか。

 

「ねえ、大丈夫だよ! こっちの文章にしたほうがいい印象になるって!」

 

このところ、頻繁にAはBへ囁く。

これまではかわいい妹のBがどうにかうまいことできるよう尽力していたAであるが、めちゃくちゃ暇になってしまったため、自分の力を行使できるよう自らがんがん動いている。Aはそもそも働き者なので、自分から仕事をとってくる主義なのである。えらすぎかよ。

文章を書くときも、Aは添削するだけでなくおのれの書く量を増やしてゆく。するとAの表現がどんどん増えてゆく。

Bは、まぁどうせ文章もおねーちゃんのほうがうまくやれるもんな……とぼんやり委ねる。自分の文章なんて、所詮は中二病の産物である。そんなことくらい知っている。

 

「ね、ほら、私に任せて!」

 

AはにこにこしながらBからペンを奪う。Bはぼんやりとそれを見ている。

Aの存在感はどんどん増してゆく。うまいこと書けるように、ちゃんときちんとした文章を書けるように。

侵食されてゆく。

 

 

のが、現在である。

お分かりであろうか。いや分かんないっすかね。まぁそういう感じなのである。

私は思う。Aよ、お前、暇だったんだな……。そりゃまぁ24歳にして隠居を薦められたら泣くよな……。

そんなわけで、ペンネームがほしかった。やっとここの話に戻れる。そう、私はちゃんとAとBを分けたかった。Bに名前を与え、Aとはちがう人物なんだよお前はと言ってやりたかった。Aに、Bが動けるようになるにはきみの力が必要なんだよ、と撫でてやりたかった。実はおねーちゃんのほうが気にしいなのだ。

しかしこればっかりは仕方がない。ペンネームが欲しかったといえど、たぶんペンネームを使って書いたら今の文章は書けない。私は、AもBも使って三宅香帆を構築してゆくしかないのである。

今更分けられたりなんかしない。たぶんAもBもいることが必要なのである、三宅香帆には。ほら、シスターフッドものも流行ってるし。関係ないな。

しかしAもBも生まれた時から一緒にいたのだ、もはや離れることもどっちを殺すこともできないのである。たぶん。三宅は三宅なのだ。……なんの悟りなんだろうか。

 

 

この日記に結論はない。たぶん結論は出せない。この先AとBがいかに和解するのか、あるいは殺し合うのか、私には分からない。私はAでもBでもないからである(じゃあだれなんだ?)。

しかしどうにかAもBも暇を持て余さず、楽しく毎日を過ごしてくれ、と、三宅香帆(本体と名づけておきますかね)としては望むばかりである。

 

 

……ここで最初に「※今回の話はいつもにもまして中二病っぽいです」とか注釈をつけたがるのがAの仕業なんだよな、わかってるよ、A。ほったらかしてごめんな。でもちょっとその注釈は置いとけよって話だ。

 

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

 

 双子ものだったら『ふたりのロッテ』がいちばん好きです。

京大の吉田寮をモデルにしたドラマ『ワンダーウォール』を見た(あるいは敵のいない物語の作り方)

この世にはどうしたって物語になる人とそうでない人がいて、もっというと、物語になる物語と物語にならない物語がある。

本当だ。

いや、この世はみんながそれぞれ主人公なんだよ、という言葉もある。その主張に異を唱えようとは思わない。実際みんなそれぞれ主人公な時もあれば脇役になる時もある。けど、それでもやっぱり、望もうと望むまいとなぜか物語の主人公になってしまう人はいるんじゃないかなーと思っている。なんだろう、能力とか性格とかの問題じゃないのだ。

もちろん、物語になる/ならないということと幸せの有無に相関は、ない。

 

 

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与太話は置いておいて(いやこっからも与太話のようなものですが)、先日、『ワンダーウォール』というドラマを見た。

京大の吉田寮の話だ。吉田寮のドラマができると聞いたとき「面白そう」と思ったけれど、なんと脚本家が渡辺あやさんっていうじゃないですか!!! 私は『カーネーション』を朝ドラで見て以来渡辺脚本の大ファンなのである……。『天然コケッコー』も『合葬』も『火の魚』もその他諸々も大好き。

ドラマを見てみると、私自身やっぱり渡辺あやさんの脚本が好きなのもあって、面白かった。成海璃子が京大文学部インド古典哲学の研究室にいた」という設定が個人的にハイライトだった。いてほしい。

ドラマのつくりはまるでドキュメンタリーかと思うくらい、吉田寮取り壊し問題をめぐる対立、雰囲気がそのまんま描かれていた。まぁ私は正直吉田寮についてほぼ知識がないので、実際「そのまんま」なのか、リアルなのかどうかは分からない。けれど京大界隈のツイッターで「だいぶ取材したみたいですね」「あんな感じだ」「そのまんまだ」とかいう意見をちらほら見たので、たぶんリアルだったんだろう。

 

けど、見ててつくづく思ったのが、「物語になる」ってなんなんだろうなー、ということだった。

いやぁ、京大、つーか吉田寮、そこにいるだけで物語になるのだよな。ほんとに。

 

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インド古典哲学な成海璃子……。

 

当然の話だが、すぐれた脚本や芸術というのは、なんでもない日常をよき物語として切り取る。切り取り方が作家性として表象される。上手なエッセイストさんがなんでもないことを面白く書けるのはそこに技術があるからだ。

『ワンダーウォール』も、なんでもない寮の風景が、渡辺あやさんの脚本によって良い物語になっていた。いやー寮生の微妙な会話とか、突然挿入されるお茶のシーンとか、脚本じょうず~~~とほれぼれした。

でも、なんていうか、これが「吉田寮」じゃなければ、たとえ「日本最古の寮」という条件があったとしても、ドキュメンタリー風に彼らとその場所をうつすことが物語になるとは限らないんじゃないかな、と思ったのだ。

もちろん今回のドラマは伝統のある寮の取り壊しをめぐる葛藤がそこにあって、それは非常に重大で大切な軋轢があって、そりゃ物語になるのも分かるんだけど。

でもやっぱりさぁ、京都とか京大とか吉田寮とかそこにいる彼ら、やたらめったら、物語に、なるよ!!!! 物語力、強いよ!!!! 今勝手に作った造語、物語力!!!!

 

 

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寮と対立する学生課の受付に「壁」ができた、というのが物語のはじまりだった。

 

これは完全になんとなくの雑感なのだが、今、みんな、物語を欲しがっているような気がする。

自分の人生や日常が、なんらかの物語であってほしい。SNSのせいなのか個人がスポットライトを当てることが多いからなのか分からないけれど、みんな自分に何らかの物語が欲しいのだ。それは昔からそうだろうと言われればそれまでだけど、最近とくにそういう傾向があるように感じる。まぁその「物語力」があったところで京大生や吉田寮が憧れられるわけじゃないけどさ……。

 

じゃあ、物語はどうしたら生まれるのだろう?

――一番分かりやすい物語をつくる方法は、「敵」をつくることだ、と思う。

敵がいれば、その敵に立ち向かうようなストーリーが生まれる。倒そうとする悪がいれば、その敵に向かっていくという物語が生まれる。うん、ドラマチックである。

だけど実際。私たちの周りに「敵」がいることは、案外少ない。

実は、私たちの前には、敵ではなく「壁」があることのほうが多い。

そう、『ワンダーウォール』というタイトルにもあるとおり。

 

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友達と「あんなしゅっとした京大生いない……」と喋った。しかし俳優さんは画面の端々からみずみずしさが滴るような方ばかりだった。すごい。

 

この世には、そうそう、敵なんていない。完璧な悪なんていない。大人になってからは、バイキンマンですら世界には必要であることが知らされる。敵とみなされるやつなんて大抵はスケープゴートである。

だから困る。わかりやすい敵がいたなら、そこに物語なんて簡単に生まれるのに。

反対に、みんな壁には抗い難い。なぜなら壁は私たちを守ってくれたりもするからである。権力は尊い。えらい。しかし壁に守られたままだと、結局私たちは絶望し始める。どこにもいけないからだ。やりたいことがやれない。

そのなかで、誰かが私たちを取り囲む壁に「息苦しいなァ」と気づいて、そこに追突していくようなことが起こった時――それは、私たちの物語になるのだろう。

 

軋轢があって、弱くて、壁なんかまぁ勝ちようがなくて、けどそこにユーモアだったり知恵だったり壁の一部になる権力だったりを使ったりして、なんとかかんとかやってく。うちに、もしかしたら壁が崩れるかもしれない。崩れないかもしれないけど。

ってのが、ひとつの物語になる。

敵は、そこにはいないけど。たしかに倒すべき壁があるから。

 

 

 物語を欲しすぎると、人は勝手に敵をつくり始める。まぁそれが一番わかりやすい物語だから。ヤマトタケルオデュッセイアも敵を倒す話である。敵は敵認定をすると頭の中で敵になる。

けど、実際に一番倒すべきは、特定の個人である敵ではなかったりする。壁を作り出した構図そのもの、社会とか権力とかもっと大きなもの自体を倒すのがほんとうだったりする。

そんなわけで、吉田寮の取り壊し問題を「壁」に寮生が立ち向かうことに葛藤する物語として描いた『ワンダーウォール』は、寮と教授陣の話に見せかけて、個人と権力の話なんだよな……。と、その物語のあざやかさに私は改めてほれぼれするのであった。

 

 

 

人生は物語になんかならなくていい。平和がいちばんいい。きわめて穏当な波に乗ってくのが一番だ。壁のなかで守られてこ! と、基本的に日和見主義な私は思う。

けど一方で、壁がそこにあったら、息苦しさも閉塞感も軋轢も不自由も生まれる。だから、その壁を倒しきるのは無理だとしても、壁にむかって摩擦を叫ぶくらいは、ゆるされるべきだと思う。でも大抵、摩擦は嫌がられる。めんどくせーから。空気を読まないから。

だけどその摩擦をゆるしてくれる場所がもう少し増えるくらい、いろいろ余裕のある寛容な社会になればいいのにな……と、私は思う。

 

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余裕のないとき、人は人の不機嫌をゆるせない。

だからこそ、摩擦をゆるしてくれるところには、物語が生まれるのだと、私は思う。