東京物語

小津安二郎オマージュじゃありません(期待した人はごめん)。

未熟さへの愛慕――『天気の子』による重力の反抗 (※ネタバレ超含みます)

 

 

「最後の『大丈夫だ』ってつぶやくシーンの背景は、雨であるべきだったと思う」

 

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「いやほんとそれ、あそこはせめて豪雨の中で『それでも僕たちは大丈夫だ』って言うべきだったよね」

「陽菜ちゃんの晴れへの祈りが通じた~的な意味かもしらんけど、社会を狂わしといてそれはないよね」

「でもあれが晴れってところが『天気の子』って作品の本質な気がする」

「わかる」*1

 

***

 

天に向かって銃を撃つ。

すると弾は一瞬だけ重力に反抗する。一瞬、落ちずに、天にのぼる。

その重力に逆らおうとする瞬間を描いたのが『天気の子』という物語なのかもしれない。

 

 

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未熟さへの愛慕。それこそが『天気の子』という物語の特異さである。 

通常、未熟さは乗り越えなくてはならないものとして扱われる。いつまでも未熟であってはならない、成熟しなくてはならない。それはたとえば雨が天から地に落ちるものであるという重力が存在するのと同じように、子どもが大人に成長することは当然の方向性として扱われる。

そのような「重力」が存在しているからこそ、物語はビルドゥングス・ロマンを語り、人は誰かの成長に時に涙してきた。

たとえば、しばしば新海誠監督がその影響を語る村上春樹の代表作『ノルウェイの森』には、以下のような台詞が存在する。

そして俺は今よりもっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。

(『ノルウェイの森講談社文庫、下p183、初出1987)

 私たちは、大人にならなければならない、という圧力あるいは重力の中で過ごしている。

 

本作でも、「早く大人になりたい」とつぶやくヒロイン陽菜の姿が描かれる。こんなふうに未熟な子どもだから自分は弟を守れないのだ、と嘆く陽菜を、主人公の帆高はサポートすることになる。

二人が「ビジネスパートナーになった」と述べる場面があるが、ビジネス――つまり自らの力を換金する作業によって、彼らは自分たちの未熟さを乗り越えようとする。陽菜はポテトチップスを使って料理を作り、帆高は自分たちが生きていくためのサービスのマネジメントに徹する。いかにも子どもが大人のパロディをしようとする場面が描かれる。

陽菜の弟である凪はもっとも分かりやすく、帆高に何度も「マセた小学生だ」と呼ばれる。それは彼ら子どもたちが大人になろうとする、未熟さから脱しようとする姿の象徴だろう。

 

しかしその一方で、相反する引力のように、彼らの周囲にいる「大人」たちは、大人であることを拒否しようとする。いや、大人であるにもかかわらず未熟な自分に戻りたがっている、というほうが正しいだろう。

夏美は、大人になる通過儀礼であるところの就職活動に飽き飽きした顔をする。須賀は娘を引き取ることができないが、妻の残したものを片付けられないままの事務所に住む。須賀が禁煙していたにもかかわらず、またもとへ戻るように喫煙する姿を描き、夏美に叱咤される場面は、大人たちが未熟な自分に戻ろうとする逡巡を描いたと解釈できる。喘息を持つ父として禁じていた煙草を、また吸ってしまうのだ。*2

 

この物語が未熟さを脱しようとする子どもたち――つまりは帆高・陽菜の話だけで終わっていたら通常通りのビルドゥングス・ロマンなのだが、新海監督はそうは描かない。

ある種の未熟さを起点とし、そこから脱しようとする子どもと、そこに帰ろうとする大人。その相反する方向性こそが『天気の子』の物語である。

たとえば重力に逆らって天へのぼる少年少女のように、通常であれば未熟から成熟へ動こうとする物語の重力に、新海監督は逆らう。帆高・陽菜のふたりの反対に、須賀・夏美を配置することによって、純粋なビルドゥングス・ロマンの重力に抗う。

 

しかし映画を見た人は、「いやでもこの話っていわゆる少年少女たちの成長物語、ビルドゥングス・ロマンなんじゃないの?」と言いたくなるかもしれない。帆高は、ビジネスパートナーとして陽菜の力を利用した自らを悔やみ、少女を人身御供にしようとした自分自身の無知を否定する。これは未熟さを断とうとする、いわゆる「大人になろうとする」試みではないのか、と。実際、『天気の子』を少年の成長物語として読むことは可能だろう。

が、それでは物語のラストシーンまで辿り着けない。

 

まず前述したように、陽菜は「大人になりたい」と願うヒロインであるが、大人になることを奪われたヒロインでもある。これ以上成熟すると、社会が狂ってしまう。だから大人になる前に消えなくてはならない。実際は年齢がもっと下だった、というエピソードからも分かるように、陽菜は未熟さを隠して生きるキャラクターとして描かれる。*3

そのような陽菜に対して、帆高は、「社会が狂ってもいいから、君のほうが大切だ、僕と君さえいればこの世界は大丈夫だ」と述べる。それは一見、恋愛物語としての帰結に読める。ある意味これまで「セカイ系」と呼ばれた物語の、ありふれた結末のようにも。

しかしこの後、新海監督は、大人――たとえば事務所を移った須賀、あるいは以前助けた老婦人――から「元々世界は狂っているのだから、きみの未熟さのせいではない」と述べさせる。これが『天気の子』が内包してきた、相反する重力――「大人になりたい」と「子どもにもどりたい」の引っ張り合いの帰着点なのである。

須賀は「自分の責任だなんて自惚れるなよ」と、老婦人は「もともと東京はこういう街だった」と帆高に伝える。そもそも世界は狂っている。君たちが未熟であったその代償として世界が狂ったわけではない。つまり、そもそも大人たちは未熟であり、その結果として社会は狂っているのだから、君たちのせいではない。

だからそもそも、大人になる=社会の一構成員であるために何かを失うくらいなら、大人にならなくてもいい。大人であるところのキャラクターに、そう言わせる。きみは陽菜を失わないままでいていいんだ、と。

 

物語中盤、須賀は帆高に陽菜を手放して島に帰ることを「大人になれよ、少年」と要請するが、結局その論理を通すと、少年・帆高は大人になっていないままである。妻を失った「大人」の須賀と対比して、帆高は陽菜を失うことを選択しない未熟さを抱えたまま「青年」になる。しかし『天気の子』という物語は、そのことを肯定する。未熟であるままの帆高こそを、この作品は肯定し、もっといえば愛しているのである。

 

まだ何も失っていない頃の、未熟だった自分を愛する感情。それは通常ノスタルジーと呼ばれる。大人になる、成熟するために何かを失う前の自分。まだイノセントだった自分への懐かしさ。しかしノスタルジーと呼ばれる感情は、本来ならば、現在の自分と断絶した過去を愛おしく思うものであるはずだ。

が、『天気の子』にとって未熟さは断絶しない。大人が子どもだったころの自分を突き放して懐かしく思うのではなく、本気で未熟さこそがこの世界をすくうのだ、と、肯定する。それはむしろ懐かしさではない、希望をそこへ見出す行為である。

 

だからラストシーンで帆高が陽菜と出会った時、社会=東京は土砂降りの雨であっても、その背景は晴れている。社会の天気を狂わせようとも、彼らは土砂降りの雨のなかで大丈夫とつぶやくことはない。なぜなら、「大人になれ」という重力に反する――天から雨を降らせる力に逆らうこと、つまりは未熟なままでいることこそを、帆高は選んだからだ。

帆高は、陽菜にこんな力を持たせた世界を憎む、とも言わない。ただ「大丈夫だ」と言う。 陽菜が世界を狂わせる力を持ったままだとしても、陽菜が力を持ったままでは大人になれないとしても、自分も同様に大人にならないままでいるから大丈夫だ、と。

『天気の子』という作品は、その未熟さこそを美しく描き、大人になろうとしないことの甘美な痛みを愛する。

 

未熟さは希望である。

雨であるはずの東京で、束の間晴れた美しい空を背景にしたラストシーンは、その宣言だったはずだ。

 

 

***

 

個人的には未熟さを愛するなんて死んでもしたくないしまじファックと思うけれど、でも、『天気の子』という映画体験はその美しさを描いた作品だった。と私は解釈している。映画の中で歌う野田洋次郎が綴ったように、それは、「重力が眠りにつく」日の話なのだから。*4

 

『天気の子』の主人公・帆高は、銃を空に向けて撃つ。重力を振り切るように、弾を上にむかって撃つ。

それが「きもちわるい!」とヒロインに叩かれるほどに未熟な行為であることを、おそらく新海誠監督は誰よりも分かっているのだろう。

でも、その未熟さを本気で愛する(繰り返すが懐かしむのではない、たぶん新海監督は本気で未熟さこそを愛しているのである)、ちょっと狂気じみた感情を描く映画に癒されることもまた、映画というエンターテイメントの効用、なのかもしれない。

 

 

 

*1:と、いう会話をこないだ友人とした。Twitterで『天気の子』について書いたらその次の一週間会う人会う人みんな『天気の子』の話をしていた。すごい。まじですごい。

*2:インタビューで「須賀は帆高に“大人になれよ”とか言うくせに、自分は大人にちゃんとなれていないと思うんです。大学生の夏美は“大人になりたくない”と思っていて、モラトリアムの中にいることを自覚している。」と語る新海誠監督は意識的にこれらの大人と子供の対比を描いていると考えられる。参考URL:https://ddnavi.com/interview/554801/a/

*3:自らの処女性を売る現代のアイドル像を表象しているように考えられる、が、たぶんいろんな人が言ってるので省略~。

*4:『グランドエスケープ (Movie edit) feat.三浦透子』(作詞・作曲:野田洋次郎)歌詞URL:http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l04ce5d.html 

ジャスミンがつかまえたハッピーエンドなんだよ――映画『アラジン』を見てきた

 

いったい私はこれ以上強くなってどうすんだろう、とたまに思うようになった。

 

自分のやりたいことをやれるようになりたい、やりたいことをやれる立場がほしい、だれにも邪魔されずになにも文句を言われずにやりたいことをやれる大人になりたい、と昔から願っていた。

いや勝手にやりたいことやったらいいやんけ、と言われそうだけど、意外と世の中そうもいかないもんである。やりたいことをするためには、そのための立場が必要なもんだというのが私の基本姿勢である。能力だけじゃ足りない。

はやく強くなりたい、自分が言われたくないなにかを言われても傷つかないように、自分のやりたいことをやれるだけの能力がほしくて、強くなりたい、と思ってきた。

が、なんだか最近思う。「いや強くなって……だから何!?」と。

 

 

ものすごい矛盾なんだけど、昔よりもやりたいことをやれるようになったら、それはそれで、いいのかこれで、と戸惑うことがある。

基本的にやりたいことをやるのは孤独な営みだ。たとえばそれはみんなが寝てる時間にキーボードを叩くことでもある。基本的に楽しい作業だし、それがどうとは思わないんだけど、なんというか、無性にだれかと共有したい気持ちが生まれる時がある。だけどひとりでキーボードを叩くことを選んだのはほかでもない私だった。

そこにしか自分はいないことをもう知っているし、そこから今更逃れようなんて一ミリも思わないし、そもそも仕事はありがたいことでしかないのだけど、だけどたとえばどんどん睡眠時間が少ない翌朝もなんともない顔でけろっとして過ごすことができるようになり、自分なりに対処法を覚え、そしたらこのちょっとだけ生まれたつらさはどこに行くのだろうと考えると、どこにも行かない。

つまり、私が願ってきた強くなるという行為は、畢竟、弱さをだれかと共有せずに自分のなかに強さに循環させようとする営みでしかないのだな、と分かる。

もちろん強くなれば余裕ができて、他人を弱かった時よりも労われるようになるはずだ。気を遣う余裕と、自分の外を見回せる力がつく。もっといいものが書けるようにもなる(と信じている)。

だけどそうなればなるほど、自分のなかのたまにどばっと溢れるものの行き場が、自分しかいなくなり、いや昔からそうだった気はするのだけど、最近その気配がより強くなったなぁ、と思う。一生こうなのかなあ、とも思う。

……いいのかこれ!? って話である。

25歳女子、オレ、このまま強くなっていいのか!? 海賊王にオレはなっちゃうか!? そんな人生望んでたんだっけ!? と。茶化していうとそんな想いがどこか拭えずにいた。

 

というところで、映画『アラジン』の実写版を見たのだった。

 

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実写版は、さすがディズニー、と頷くほどに現代版『アラジン』へとアップデートされていた。

知性を磨いて力をつけて「この国を守るために国王に私がなりたい」と言うジャスミン。しかし「女が国王になるなんて見たことない、それよりもそのまま美しくいて結婚してくれ、安全に生きていけるように」と彼女を城に閉じ込める父。

アラジンが身分の低い平民からランプの力で王子に変わるところは原作通りだけど、明らかに現代的なフェミニズム的文脈をごりごりに意識した作品に生まれ変わっていた。っていうかラスト!!! さすがに歴史的瞬間を目にしたようでうるっと来た。

で、そうなのだ。

映画のラスト、思いにもよらないところで、私は泣いてしまった。

とくに、最後の台詞で。

 

 

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この映画のすごいところは、ジャスミンが「娘のまま」自分の望むハッピーエンドをつかんでいることだ。

そう、娘のまま強くなることは可能なんだよ、と、ジャスミンは示す。

 

どれだけ稀有なハッピーエンドなのか、それは。

 

 

若い女が強くなりたい、やりたいことをやりたい、と言うとき、しばしば「男になりたい」願望と混同されることがある。

いやそれは「男になりたいんでしょ?」って飲み会の席で言われる、とかじゃなくて。そうじゃなくて娘たちの願望は、周囲そして自分の中でも、「息子になりたい願望」との見分けがつきづらい。しばしば誤解を生む。

たぶん社会の中に、まだ娘でありながらやりたいことをやる型が少ないからだろう。見てないものを想像することは誰だって困難だ。見てないんだから、見えてるものにすり替えて「あなた/じぶんが欲しいのはこれだよね」って差し出したくなる。

 

でも、ちがうのだ。

 

べつに娘たちは、息子になりたいわけじゃない。

だけど娘のまま、やりたいことが手のなかにあってしまうから、だからどうすればいいかわからなくて、立ちすくんでしまうのだ。

息子になるために強くなりたいわけじゃ、ないのに。

 

ジャスミンだって、「父から結婚してくれと望まれ、美しいだけでいいとおじさんに言われる娘」から脱したかっただけで、「息子になりたい」と願っていたわけではなかった。

でも周囲からは、「息子になりたいなんて言わずに、ちゃんと娘のままでいなさい、そのほうが幸せなんだから」と言われる。

ちがうのに。それは誤解なのに。私は娘のままやりたいことがあるだけなのに。

 

っていうか、『アラジン』を見れば分かるけど、そもそも娘は、息子になれないしさあ。

結局のところ。

 

 

 

『アラジン』という作品のテーマでもあるけど、人は自分以外のものになろうとすれば、どこかで破綻がやって来る。アラジンはアリ王子にはなれず、ジャスミンは美しいだけのプリンセスにはなれない。

それが生きやすいか生きづらいかにかかわらず、私たちはどうしたって生まれ持った自分を引き受けざるをえず、その自分以外にはなれない。

でも時にそれを侵害してくる他者がいる。お前はこっちだ、と、自分じゃない誰かにさせようとする他者は、どこかで現れることがある。

その時は、戦うしかない。自分のことは自分で手綱を握られるように。

 

だとすればやっぱり強くなるしかないんだ、と、映画を見たあとは、思う。

 

 

 

現実にはありえないと嘯きたくなるハッピーエンドには「こうありたい」という道筋を人々に見せる効用があるんだ、という話を読んだことがある*1。『アラジン』を見ると、その意味が分かる。

こんなハッピーエンドが実際にあるかどうかじゃなくて、本当はみんながこうありたい型を見せることが、物語のハッピーエンドなんだ、と。

 

 

 

映画のラストで、ジャスミンは言う。

「私がつかまえたのよ」と。

 

現実に、ハッピーエンドをみんながつかまえられるだろうか。息子になれない娘たちも、どこかで、なにかと折り合いをつけられるのだろうか。

これ以上どこにも行けないのかもしれないと思っても、それでも、ちゃんと自分でつかまえるまでは。

意志が連れてきてくれる未来も、たぶんそこに、あると信じたい。だってそうじゃなきゃ、ディズニーが夢を見せる意味なんて、ないじゃないか。

*1:豊島ミホさんのブログに書いてあった。

toshimamiho.info

京大を退院します!

京都を離れて、東京にいくことになった。

 

……これからブログタイトルどうしよう。っていうとなんか他人事みたいなんだけど。

 

 

現在わたくし京都大学の大学院に所属しているのですけれど、この春から、東京で一般企業に就職することになったのですよ。あっ書く仕事は続けるんですけどね!

いやはや。身近な人には大昔に言ったのだけど、ブログにもちゃんと書かなきゃな、書かなきゃな、と思い続けてはや数ヶ月。夏休みの宿題を抱えたままの子どものよーに、「ああ東京行くって書かなきゃな」と。いやべつに報告義務なんてないんだけども。

 

ちなみにはっきり決めたのは秋ごろ。

でもわりとずっと迷っていた。

 

 

私は文学を勉強したくて京大に来て、いろいろあって*1、大学院にまで進んだ。

「京大院生」って肩書きでお仕事ちょこちょこ頂いたり、こんなブログで京都の思い出について書いたり*2、大学の図書館でイベントをさせていただいたり*3、なんつーか……この一年、京大にいて楽しかった。いろんな、学部生の頃には思い描いてもいなかった仕事やご縁ができて。

研究も楽しかった。ブログやツイッターでは研究について触れることは意図的にしなかったけど、ほんとはすごく楽しかったです!

……いや、もうむりむりと思ったことよくあったけど。ゼミ発表準備のために徹夜してそのまま空港行って台湾で学会でた時とか。眠すぎた。根性なしなのですぐ「む、むり」と思ってしまう。むりでもやるけどさ。

この一年で新しい友達や知り合いもできたし! いやー博士後期課程でも友達ってけっこうできるもんですね。研究の話、するのも聞くのも楽しかった。これは純粋に「楽しかった」って言えるぞ。

 

で、まぁ総じて楽しかったわけです、大学院生活。

まあそらそうだよな。一方で文学のこと書いたり話したりして、一方で文学について研究して、「あれっ私これ望む生活手に入れた!?」って感じですわ。楽しくなきゃバチが当たるわ。

 

でもどこかで、「あ、私、もうここを出なきゃ」ってぼんやり思いついていたのも事実だった。

 

 

このあたりの言語化がなかなか難しいのだけど。

 

 

ひとつ唐突な話をする。

私は、人にはそれぞれ、配られたカードがあると思っている。PEANUTSで言われていたアレだ。

 

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「なんであなたは犬なんかでいられるんだろうって思うわ」「だれもが配られたカードで勝負するしかないんだよ……それがどういう意味であれ、ね」

 

もともと配られた、能力とか好みとか環境とか。それらは、実は自分でも認識するのに時間がかかるカードだ。努力込みではじめて効果を発するカードもある。ちなみに今私は25才だけど、ようやくちょっとカードの全貌が見えかかってきた気がする。

 

で。そのカードを使って、いかに自分の大切なひとやもの、大好きなものやひとにーー力を使えるか。

ってのが人生なんじゃないか、と私は思っている。

 

それは仕事とかキャリアとかだけじゃなくて。なんだろう、幼稚園でおままごとをするとき、みんな同い年なのに自然と「お父さん役になる子」「ペット役になる子」「配達のおにいさん役になる子」「何の役だかわからないがとりあえず参加する子」って分かれたじゃないですか。あのイメージ。それぞれ自分がすっと受け入れられる場所があって、それでひとつのおままごとごっこを完成させてる、みたいな。

みんなそれぞれ役目はちがう。なぜならそもそも配られたカードがちがうから。でもその異なる役目やカードはすべて合わせるとひとつの完全体(小宇宙てきな!!)になる。……伝わりますか?

 

自分に何のカードが配られているかは、偶然でしかない。

だけど私はできることなら、そのカードは、最大限、好きなものやひとのためにいちばん力をつかいたい。……ということを、ぼんやり中学生くらいの時によく考えていた。こんなに明確に言語化していたわけじゃないけど。

それは、今も変わってない。や、変わってないというか、むかしより考えが膨らんでいる。

 

たぶん今の私は、もうすこし、自分のカードを試してみたくなったのだ。

 

 

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構内にもう桜が咲いてた。春やなぁ。

 

大学院は居心地がよかった。これ以上あたたかい場所なんて人生で現れないんだろうな~と心から思うくらい「あたたかい」場所だった。

いやまぁ論文がリジェクトされたりゼミで先生にやんわり苦笑いされたり(苦笑いされるのが一番心に来るよね)学会発表できびしいお言葉をいただいたり、おうっとダメージをくらったことはなきにしもあらずですが!?

しかし先生や研究室に恵まれて、のびのびさせてもらえたのが大きかったんだろう。大学が組織としてどうなのかはともかく、私はふだん接する先生方のことを世界で一番尊敬してて、それだけでじゅうぶん、ここにいる理由だった。あったかいし。

 

だけど。ふっと気がつけば、私のこの先の人生、なんとなく「研究者」というカードだけで生きてく気があまりしなくなった。

それでも先生方のことを尊敬してて、文学の研究をするのが楽しくて、大学院があたたかかったから、ここまでいてしまったなぁ。と、今になって思う。

でも私のカードじゃ、いつまでもここにはいれないなぁ。

と、今年度一年かけて分かるようになった。カードの確認完了だ。

 

 

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近所のお寺の桜も咲いてた。みんな桜にスマホ向けてた。私もだ。

 

変な感覚かもしれないけれど、私はずっとどこかでうしろめたかった。「こんなに文学そのものや文学の先生方から私はたくさんのものをもらってるのに、どうしてなにも返せないんだろう」ってことが。

なんというか、「読む」という作業はどこまでもなにかを「もらう」作業で、もちろんお金は払っているけど、なんというかまったく労力に見合うとは思わない。

もらってばかりなのが居心地わるく、文章を書くようになってちょっと「わたす」側になれた気がして、ああようやくこれでもらってばかりじゃなくなる!! とホッとしたのだけど、それでもやっぱり圧倒的にもらってばかりだ。おいおい。循環しねぇ。

でもどれだけ「ちゃんと返したいな~~~~」と願っても、やっぱり自分の力をつけないと、コツコツつけていかないと、私が返せるものなんて何もない。

自分に力がないと、だれにもなんにもできない。

 

 

だから、就職先で力をつけたり、もっと自分の書きたいもの書かせてもらえる場を探したりして*4、ちょっと精進してゆきたいなぁと思う。

どうやら私のカードは、研究よりも本書いたり人と喋ったりするほうが有効みたいだし。いや知らんけど。でもちょっとがんばってみたい。

 

どこまでたくさんのものを返せるのか、あるいはもらったものを他のだれかにパスできるのか。が、私の勝負なんだなあと思う。

 

もらってばかりだったから。今まで読んできた本や話してくれた誰かから、もらったたくさんのものを、ちゃんと返せる、渡せる大人になりたい。

そのために私は私のカードを把握して、どう使ったらいちばん大きなものになるかな、って、考えて、動くのだ。

と今は思う。なんか若くて恥ずかしいけど。

自分だけができることをしたい。

 

……って口ばっかりでもだめだから、きちんと手を動かさなきゃですね。ほら、地獄の引越し作業*5によって出せていない原稿を出すのだ!!@編集者さん、ほんとにすみません!!!

 

 

 

そんなわけで、退職エントリならぬ退院エントリでした。京大では大学院に入ることを「入院」、出ることを「退院」って言うんだけど、これ一般用語なのか? 謎。

しかし退職エントリはよくあるけど、退院エントリってあんまりないよね!? どっかで後輩たちの役に立てば~~ってぜんぜん立ちそうにねえな。ごめん。なんかあったらメールして(私信)。

 

それにしても京都でお世話になった皆々様、ほんとうにありがとうございました! 意外とみなさんこのブログを読んでくださっててまじびっくりします!

そして東京でお会いしたい皆々様、どうぞよろしくお願いします! ブログを読んでる方はひとことお願いします!(心構えのために!)。

 

っていうか東京に行った自分、がんばれよ~~~さぼるなよ!!!

 

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鴨川は夕焼けがいちばんすき!

 

 

*1:学部の時もM2の時も就職しかけてたんだよ! でもそのたびに鴨川のカモがネギ背負って「きょ~とのみ~ずはあ~まいぞ~」って歌って引き止めてきたので、進学を選ばざるをえなかったんです! 嘘だけど!

*2:実をいうと、このブログの一記事目を書いたあと、編集者さんから連絡がきて「もっと京大のこと書いていきましょ」と言われたのだった。結局なんだか恥ずかしくて、あんまり京大あるあるみたいな話は書けなかった。やっぱりいま自分がリアルタイムに所属していると書きづらい。卒業したら書けるかなあ。

*3:とっても楽しかった、京大生協の本屋さんにも図書館にも本当に本当にお世話になった。ありがたい。まぁ今日ご挨拶に伺ったら図書館員さんにツイッター読まれていることが発覚して焦りましたが(あ、ありがとうございます)。

*4:副業おっけーなとこなので、これを読んでいる出版社およびWEBおよび諸々の方々、お仕事ください!笑。すみません宣伝でした!!

*5:本の梱包作業が大変すぎてしぬかと思った。なんで本ってあんなに重いのか。ちなみにうちの先生は引越しの際、ダンボール二百箱を引越し業者さんに運ばせたらしい。おそろし。

2018年に出会った「名文」ベスト10

「め、名文……」と呟くのが癖です。

 

本を読むのが好きなのですが、それ以上に「名文~~!!!」と呟きたくなる文章そのものに出会うことが好きなのだと最近気づきました。

 

というわけで年の瀬なので、2018年に出会った名文たちをご紹介。

せっかくなので、

①2018年内に発表されたもの 
②2018年に私が読んだもの 
③短い文章だけで作品として成り立っている(小説の中の1場面とかはなしで) 

という制約つきで選んでみました。なので小説や批評一冊まるまる感動したものは除外してます、それはまた別の記事で。

で、こんな制約をつけたらインターネットのものが多くなりました。

2018年のWEBもさいこ~だったってことですね! よかった! 今日もインターネットは最高! たぶん!!

 

***

 

  

10.谷川俊太郎「生きていく」

www.tanikawashuntaro.com

のっけからWEB上の文章だけどWEB上の文章っぽくない。だって谷川俊太郎だもの。けれどブラウザに浮かんでいても谷川俊太郎の文章はすっと頭に入ってくるからすげーよな、と男子小学生のごとき素朴な気持ちで感動する。谷川俊太郎先生の公式サイトはわりに好きでちょくちょく覗いているのだけど、無料でさらりと新作が置いてあるからすごいと思う。今年発表された中では上にあげた「生きていく」がすごく好きだった。詩って基本的にはノンフィクションの体裁に見える(=「私の気持ち」を歌ったものとして普通は読む)わりに、実はものすごくフィクション的な要素の大きい媒体で、そのバランスがいいよなあといつも考える。

 

 

 

9.松浦理英子「江南亜美子さんによる松浦理英子講演会での発言ツイートレポ」

大好きな作家さんのイベント、ほんと行きたかったんだけど行けず、しかしこうしてツイッターにあげられていた言葉だけで泣けてきてしまう。まさか自分がツイッター見て泣く経験があるとは思っていなかったので、衝撃のランクイン。松浦理英子が追っかけてる問題はいつも、自分の中だけの【内なるマイナー性】なのだよな。ほんとこの人信頼できる……と感動した。ぐぐったらイベントレポのブログがあったので載せとく。↓

マイノリティであるということ――10/31 トークイベント(ゲスト:松浦理英子)「現代文学を語る、近畿大学で語る」 - 快適読書生活

 

 

 

8.ひるねのたぬき「愚かさについて」

chez-nous.typepad.jp

ひるねのたぬき、というのは京大文学部にいらした吉岡洋先生のツイッターアカウント名のことです。はい。しかしこのブログにはあまりにも名文が多く、なんでこんなものが無料で転がっているのか理解不能です。いやもうこの文章とか読んでくれよ、書くこととは原理的にひとつの愚かさを引き受けるという選択!!! はいリピートアフターミー!!! 墓に刻みたい。嘘だけど。たまに読み返すと元気になる。これの次に更新された「文化とはスノビズムである」もすっごーくいい文章で、実はどちらを選ぶか迷った。

 

 

 

  7.宮崎駿高畑勲さん「お別れ会」追悼文」

www.huffingtonpost.jp

私が言うまでもないけれど、名文でしたね………。日本中が泣いた。「あの雨上がりのバス停で」っていう締め方が、もはやジブリの映画の中にいるかのよーな。で、そんなラストもいいのだけど、一番心を打たれたのは「僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか。どうやって。」というところ。もっと遠くへ、もっと深く。その両方があったからこそこんなにもジブリは異常な作品を生み出せたのだ。満足なんかしてちゃだめだよなあ。

 

 

 

6.chiyok0「その不足はまだ見ぬ他者である」

http://chiyok0.tumblr.com/post/169785818067/その不足はまだ見ぬ他者である

chiyok0.tumblr.com

今年の1月に更新されたブログ記事なのだけど、今もなおたまに、ふとこの記事の中にある「それはかつての私ではなかったか」という言葉が頭の中で反復する。そういうものを私はいつか忘れる日がくるのか。分からない。忘れてしまうのがあまりにも簡単すぎて分からない。すぐ忘れちゃいそうだけど、忘れた自分になりたいのかどうかはちょっと、微妙だ。

 

 

 

5.上田啓太「かわいいは作れるけど作れない」

diary.uedakeita.net

自分の体験談からの一般論、からの突然のaiko。作者からすれば突然ではなかったのであろーが、読者から見れば突然以外のなにものでもない。しっかし文章のお手本のよーな名文記事である。この人の文章はほんとにマジはずれがなくてはたして一体どうやって書いてんだ? とシェイクスピア7人説を疑うがごとく色々探りたくなってしまう。しかも誰にでも面白さが通じるんですよ、すごい。来年も更新楽しみにしております。

 

 

4.木下千花「女こどもの闘争――蓮實重彦の映画批評における観客性について」

(『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「総特集蓮實重彦」号、青土社、2017年所収)

www.amazon.co.jp

突然のユリイカ。こんなランキングに登場させるのもおこがましすぎる名文なんですが。名文すぎて慄くという体験をしました。話の流れ、緩急のバランス、構成からもちろん議論の内容に至るまで完璧なんですが、最も美しいのが冒頭。ほんとに読んでください、泣きますから。もちろん私が師弟の関係に弱いからってのはあるんですが、いやしかしそれ以上に、ほんとうの文章で、泣いてしまう。

 

 

3.amyca「君が一番疲れた顔が見たい」

amyca.hatenablog.com

あ、あまりにも好き。好きすぎて今年インターネット文章の中で一番読み返した文章かも知れない……。「君が一番疲れた顔が見たい」、って恋愛のものすごい真理だ。きっと好きな人は疲れた顔なんて一番見せたくない相手なんだけど、同時に疲れた顔を一番見たい相手なんだよね。すごい……うつくしい……。私もこういう文章をブログで書きたいのだけど、なんかもう実名で親や先生まで読んでる疑惑が出ており、ちょっとさすがに恋バナを真剣に書くのは憚られてしまうチキン。それにしても本当にいい文章だよ。

 

 

 

2.岸政彦「権威主義・排外主義としての財政均衡主義」

(『新潮』2018年12月号、新潮社、2018年所収)

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話題になった『新潮45』問題についての、社会学者・岸政彦先生の論考。いやほんっとに私の頭にクリティカルヒットというか、「2018年の総括」としてもすごく適切な文章。私たちの社会は、なにがどうしてこんなに「お金がない」と叫ばれているのか? 自己責任っていうけどそれはどこから来ているのか? 来年もきっと考えなくてはならないテーマだろうけど、ちょっとずつ社会は変わっているんだと思う、よくもわるくも。変わらない社会なんて、ない。

 

 

 

1.渡辺あや「命と壁と場所」

(『シナリオ付写真集『ワンダーウォール』』誠光社所収)

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 いやはや、この寄稿エッセイのためだけに買いましたよこの本を、私は……ええ……。詳しくはブログにも書いた(下にリンク貼ってます)ので割愛。しかしこのエッセイに書かれてある葛藤って、実は2番に選んだ岸先生の話と同じテーマなんだよな。きっと今年の私のテーマでもあったんだろう。言ってしまえば、文化とお金。あるいは愛と余裕。って言ってしまえばふぬけたテーマに見えるんだけど、しかし市場に巻き込まれる文化、って割と大きな問題系だと思う。来年も考えていきたい。

 

 

***

 

というわけで1、2のやつはnoteとブログにそれぞれ感想を書きました。

note.mu

m3myk.hatenablog.com

 

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さまざまな人が書いてくれた文章を読むたび、はたしてこの地球上はほんとうに同じ地球上なのだろうか、と思う。

人によって見ている世界はあまりにもちがい、その世界の差異っぷりに私は文章を読むたびくらくらする。時代とか国とかいろんなもので私たちは私たちのことをまとめたがるけれど、それにしたってみんなが見ている世界はあまりにもひとりひとり、ちがう。

こんなにノリもキャラもちがう我々が同じ世界線に住んでるなんて、ギャグかよ、とたまに思う。あだち充のキャラと機関車トーマスのキャラと小津安二郎のキャラが同居してるくらい作画崩壊が起こりそうだ。

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最近あだち充の『クロスゲーム』を読んだんですが、あまりの切なさとすばらしさに胸をうちぬかれてしまった。青葉可愛すぎる。

 

それでも、だれでも文章が書けるインターネットという海のことや、だれもが自分の見ている世界について綴ることのできる文章という媒体のことが、私はわりと好きなのだ。

 

来年もたくさんのよき文章に出会えますように! 今年もよき出会いをありがとうございました。

リアルタイムに書けない

恩田陸の『光の帝国』という連作短編小説集の中に、「大きな引き出し」という短編がある。

特殊な能力を持った一家の話で、すごく好きな短編なのだけど、その中に「しまう」という能力が出てくる。

 

彼らは、いろんな芸術や文化を自分の中に「しまう」ことができる。百人一首とか、シェイクスピアとか、楽譜とか。一度「しまって」しまえば、それを忘れることはない、ずっと覚えていられる。記録係のような役目。大人になればそれが「響く」こともある。そんな能力を持った男の子が主人公として現れる。

この話はもちろんファンタジーなのだけど、この「しまう」という表現をはじめて読んだとき、驚いたことを覚えている。

「しまう」って、すごくよく知ってる感覚だと思った。

 

大学1、2回生の時よくひとりでやっていた趣味のひとつに、好きになった長編漫画を繰り返し読んで、どの巻にどのエピソードがあるかぱっと分かるくらいにするという遊びがあった。*1どのあたりにどの話があったか。一度読んでも、覚えているようで意外と覚えていない。何度か読み返してはじめて、漫画全体の構造がぱっと頭の中に入る。

そして、それくらい何度も読み返すと、自分の中にしっかりその漫画が入った、という気になる。

『光の帝国』の「しまう」という表現を読むたび、この感覚を思い出す。小説にしても漫画にしても歌集にしても、一度読んだくらいだと「はー面白かった」という感想のみが残る。だけど何度も読んでそのエピソードや構成みたいなものを覚えると、「自分のものになって、もう引き出しにしまい終えた」気分になる。

なんだろう、ジーンズを何度も履くと自分に合うようになる、みたいな? 

 

 

「読む」から翻って「書く」を考えてみると、これと同じ作業を自分の記憶についてしてるように思う。

書くことで、私は記憶を自分の中に「しまって」いるのだ。

 

 

覚えているという段階において、記憶は鮮明だけど曖昧だ。ぼんやりと今にも色が消えてしまいそうで、いつなくなるかも分からない。まだ色をはっきりと塗っていない下絵みたいな。編集されていない撮りっぱなしのフィルムみたいな。

だけど、いちど記憶を「書いて」しまうと、それは完全に色味も場面も音も形も固定される。するともう鮮明で捉えどころのない感情や感覚ではなくなって、それに名前がつく。文章という容器に瞬間冷凍する。ぼんやりとした「記憶」からひとつのエピソードである「思い出」に変える。体の中に、しまってしまう。

風景を絵に描く、みたいな作業と似ている。その思い出や感情に対して、塗る色を決めたり、線をはっきり決めたり、そういうことをしてはじめて、風景はきちんと形に残る。

 

覚えているものの、どこにもしまい終えていない記憶を、ひとつの文章にして自分の中に「しまう」。

だからこそ、私にとって「書くこと」は「終わらせること」だ。

 

逆に言うと、いま現在自分の身に起こってることを書くのが苦手。いま現在起こっていることは「しまう」ことができない。まだ落としどころが見えていないものは。書けない。

まだどうなるか分からないことはずっと脳内の「下書き」フォルダにある。文章はいくらでも脳内で組み立てられるけど、公開できない。私にとってリアルタイムに現在起こっていることは、人に見せる文章にできないのだな。と、最近気づいた。

「自分の中で結末が見えたもの」とか「どういうオチになるか分かったもの」になってはじめて、書こうと思える。

 

ってそんなブログ論みたいな話でなくとも、たとえばツイッターで「いま誰かとご飯を食べている」とか「いま作業が終わった」とか、そういうことを書くのが苦手だ。あくまで考えたこととか思ってることとか、ふんわりしたことになってしまう。具体性を伴うのは、終わってから、とどこかで思っている

日常生活でも、人に相談することが少なくて事後報告のほうが多いし、そういう性格なんだと思うんだけど。

 

 

 

書けば、もう記憶を思い出にする作業を終えて、終わりが来るんだなあ、と思う。

 

落としどころを見つけるというのは、なくす心配がない一方で、鮮明な記憶そのものではないので、少しさみしいっちゃさみしい。

だけど私は書いて、いろんなことを終わらせる。そんでまた新しいネタを見つける。そうやって色んなものを、色んなとこに、「しまって」生きてるんだなあ、とぼんやりと思う。

 

ま、終わらせることより忘れることのほうが怖いので、書いちゃうんだけど。

 

光の帝国 常野物語 (常野物語) (集英社文庫)

光の帝国 常野物語 (常野物語) (集英社文庫)

 

 

*1:今思うと「きみ暇だったんだね……」という感想しか浮かんでこない趣味だけど。このあたりで読んだ漫画も本も、本当に台詞から何からよく覚えている。おそろしい。

自分が大人になるだなんて知らなかった

萩尾望都の『10月の少女たち』という短編集が大好きである。

 

短編集といっても、小学館文庫が初期作品を集めて出したものだ。『精霊狩り』とか『みつくにの娘』といった「いかにも萩尾望都」なファンタジーやSFめいた傑作も収録されているのだけど、どちらかというと表題作である『10月の少女たち』や『十年目の毬絵』のような、日常的な物語のほうが好きである。これは完全に好みだけども。私はSFやファンタジーのような「別世界」モノへの萌えが薄いんである……。

で、表題作の『10月の少女たち』は、3つの物語をひとつの読み切りとして出している(というわけで1つのマンガが7ページくらいだったりするのだ、こんな芸当ができるのは日本で星新一萩尾望都くらいしかいない……)。「ねえキスしたことある?」と幼なじみの男の子に笑いかける女の子の話、がさつな少年が家に泊まることになって困惑する文学少女の話、結婚しないかと持ち掛けられる女性の話。一見何のつながりもない物語たちなのだけど、そこには通底する声がある。

「自分が大人になるだなんて知らなかった」

 

 

ずっと、若いっていいねえ、と言われることに違和感があった。

いやもちろん私なぞもう若くないだろというツッコミはあると思うのだけど、まぁしかし社会の中では10代から20代前半くらいまでは「若いしいい年頃」くらいに思われている、気がする。

最近は「若いって枠組みに入るんですね私……」くらいのテンションなのだけど、10代のうちは違和感しかなかった。

若いっていいか!? ほんとに!? こんなに権力もなけりゃ立場もなく何も成し遂げてないのに!? と心から思っていた。

からしたら、何かを積み上げ終わっている(ように見える)大人たちのほうがよっぽど羨ましかった。もちろん今となっては、大人だって積み上げられたものもそのために犠牲にしたと思っているものもあるし、自分では積み上げられていないと思っている大人だっているよな、と分かる。けど子どもだった自分からしたら、年齢を重ねているだけでそれは「積み上げることができている人」に見えた。実際、何らかの立場をもって私たちに接しているわけだし。

 

まぁ、「若いっていいねえ」の言葉の大半はお世辞だし(だって若い子に若いって最悪ねえ、なんて言うやつなんて大人ではない)、百歩譲ってお世辞じゃない気持ちが含まれているにしたってそれは「未来があっていいねえ」と「初々しいっていいねえ」くらいの気持ちだろう。

初々しいのほうが置いておくにしても、未来があっていいねえ、という言葉については、未来があるって知ってるのは大人だけなんだよな……と思う。

 

つまり、人はたいてい同じ場所にはいられず、時間が移り変わるとともに場所を変えてゆくものなのだ、と大人は知ってるのである。

 

 

最近読んだ『白い坂』という歌集に、こんな歌があった。三宅奈緒子さんという歌人の歌である。

  ひらけゆく未来など信じ難ければ胡桃の花をふみ帰るべし(「胡桃の花」)

奈緒子さんは女子高の教師をしていて、この歌も女子高生のことを歌ったものだろう。というのも、おそらく教師である奈緒子さんが、女子生徒たちに「ひらけゆく未来」なんて言葉をかける場面がある。だけど先生にそう言われたところで、女子生徒たちは「ひらけゆく未来」だなんて信じない。信じることが難しい。自分にひらけゆく未来があるなんて、知らない。そんなことを考えながら、拗ねたように彼女たちは胡桃の花をふみながら帰る……そんな歌だと私は思う。

この女子生徒の感じ、よく分かる。昔は「若いっていいねえ」とか「未来がひらけてるね」なんて言われるたびに、「ばかやろう未来なんかひらけてるかよ」とクサしたくなっていた。自分に無限の可能性が広がってるなんて言われても、ならはやくその可能性を終えた将来をくれ……としか思わなかった。

はやく階段すっとばしてえ~~~~と。

 

だけど実際に、ちょっとずつ大人になってみると、「うお、本当に自分は大人になるのか、まじか、そうか……」と戸惑い交じりの動揺が湧き上がる。

 

なんだか大人になるたびに、昔ただの可能性だと思っていたものが、ひとつずつ、形になっていく。

気がつけば去年は親戚のお姉さんの結婚式に1回行っただけだったのに、今年になって4回も結婚式にお呼ばれしている。同級生が結婚式を挙げる年齢になってしまった。

自分は自分のままだけど、いつのまにか同級生はサラリーマンになっているし、結婚とかし始めるし、なんなら自分もいつのまにか社会の一員ぽくなってるし、たぶんこのまま年齢を重ねてゆくんだろう。

こないだなんて、大学の時の友達の結婚式なんかがあって、「こ、こないだまで誰かの家で缶チューハイを飲んでた友達が、人様の夫に……」としみじみ思ってしまった。ふ、扶養家族のとこにマルをつける身分になっている同級生……。

 

 

自覚なく大人になるなんて本当は嫌で、今自分が何をしておくべき時期なのか? 何を積み上げているべきなのか? ってずっといつも考えている。実践できているかどうかは別にして、年齢を無駄にしたくない、っていつも思う。

はやく進めたい、次にいきたい、って。

だけどそれでも、いざ現実を見ると、「ほんとうに人って同じところにはいられないんだなあ」と思う。

 

私たちって、ほんとにあの時、ひらけゆく未来を持っていたんだなあ、と。

 

ずっとみんなで缶チューハイを飲んでいられるなんてそんな能天気なことは思っていなかったけれど、でもやっぱり缶チューハイの代わりにウェディングケーキを一緒に食べる日が来ることはまじで知らなかった。

いやー知らなかった、よねえ。

 

大人になりたくないだなんて、そんな言葉を発することすらできない、自分になってしまった。

 

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『ワンダーウォール』の渡辺あやさんのエッセイが素晴らしすぎて思いのたけを綴ったら長文になってしまった

ある日、三条で人と会った帰り道、丸善にお目当ての本を買いに寄ったら、まったくお目当てではなかったはずの『ワンダーウォール』のシナリオ写真集を買ってしまった。

 

 

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とくに買う気はなかったのになぜ買ってしまったかって、私が崇める渡辺あやさんのシナリオ全文が載ってたのと(いいもん渡辺あや研究するもん、ってそれ趣味ですが)、書き下ろしていたエッセイ「命と壁と場所」が異常なまでに良かったからです……。

 

 

ワンダーウォールについてはこちら。

www.cinra.net

 

 

そんなわけで渡辺あやさんのエッセイは、ちょっと2018年読んだなかで一番の名文だったのですが。

 

何が名文って、私が今悩んでいること、葛藤していること、そのまんま文章になっていたからなんだと思う。

 

 

なかなか読める人が多くないと思うので、内容について少しだけネタバレすると、エッセイは、彼女の住む田舎の町で「いったいなんでこんなに人が自殺するのだろう?」という疑問を持ったこと、そして「不経済である」という理由で淘汰され死に絶えてゆく様々な場所のこと、だけどなかなか個人は勝てないこと、そしてその想いをいかにこのドラマに託したか、ということについて綴られている。

そしてこのエッセイに、ドラマのモデルになった寮の名は出ない。このドラマもまた「壁に囲まれている」のだと渡辺さんは最後に述べる。

私は吉田寮(べつに個人が言っても大丈夫だよね!?)に対してそんなに思い入れはなく、潰そうという機運が高まっていると聞いた時も「えっなぜ」と怪訝な顔をしたくらいで終わった。住んでいたこともないし、何人か住んでいる友人がいるけれど、京大生の変人イメージに一役買っている場所、という印象くらいしかない。

だけど、渡辺さんがおっしゃることは、とても、とてもよく分かる。

 

寮じゃなくて、「文化」と「経済」について私はここ一年くらいすごく考えるようになった。

自分が身を置く大学をめぐる環境、自分が好きな文学研究や小説や文学をめぐる環境、そしてなによりも「自分の中での文化と経済」の折り合いが、いまだに、ずっと、ずっと着かないのだ。

 

自分が関わる文学研究や小説や文学といった類のものは、「不経済」に分類される。よく分かる。食べていけない。お金を稼げない(はは、シャレになりませんね)。どう考えても文学研究、お金を生み出す類のものじゃない。文科省から予算を削られるの分かりまくる。

それでも「価値」はある、と私は心底思っている。だって過去の文化が残っていない文化は、過去がなかったものと同じだ。民族や共同体として積み重ねられてきた知識や感情や思想、そのうえに私たちは生きている。歴史があって、時間の洗礼を受けてきたこと、そして残してきたこと、それ自体がその共同体のアイデンティティになる。それを誰かが残そうとして理解しようとしないと、使うことも保存することも叶わない。

でももう国にお金がない中で、文化を守ってられるほどの高潔さなんて残ってないのは、分かる。アイデンティティよりも明日食べてくことが大切なのだ。吉田寮の問題だって同じなのだろう。寮の維持費を出せるほどのお金が大学にない、あるいはそれに抵抗できるほどの元気が大学側にない。

それでも、文化はいったん消えたら終わりなのに……と思う自分もたしかにいて、そのせめぎ合いは、自分の中での私的なせめぎ合いでもある。

 

要は、

資本主義に、勝てねえー!!!!

ということである。文化を維持するのは、ただでは、ないのだ。

 

いや、文化の維持に場所なんて必要ない、文化の恩恵を受けた人々が記憶し、その存在そのものが文化の証だ(たとえば吉田寮の建物がなくなっても、吉田寮の思想や精神は残るだろう、ということ)と言う人もいるだろう。たしかにわざわざ過去を確認しなくても、私たちの地層には過去が埋まり、言葉には過去が潜む。だけど本当にそうなのだろうか? 忘れられたら、消えてしまうのではないのか? その文化の証としての場所や作品が残らなくては、その記憶や、そして文化は、いずれ消えてしまうのではないだろうか? 

きっと、多くの少数言語や少数民族の芸術がそうだったように、弱肉強食で忘れ去られるものなのだろうけれど。忘れることは、掘り起こさないことは、それでいいのだろうか。

 

渡辺さんも、町の小学校が廃校になったことについての葛藤を綴る。

まあしょうがない、自然淘汰なのかもしれない、母校でもないしな、などとあらゆる方便で気持ちをおさめようとし続けている。だけど数年経って、やっぱりそれがいかに残酷な、致命的な出来事だったのかを確かめさせられるようにその後の日々を暮らしているというのが、どうまぎらわせたところでやっぱり正直な実感なのだった。

 

朽ちてゆくもの。なくされてゆくもの。一度なくしたらもう取り返しがつかないもの。

それが私には分からず、やっぱり何も取り返しなんかつかないし、なくしたらそれっきりだろうし、だけど現状は進んでゆくし、時間はどんどん前に進むし、変化をおそれてちゃ何もできないし、結局どうにもこうにも結論が出ないのだ。

 

 

誰が悪いというよりも、優先順位が何によって決められるのか、誰にとっての大切なものが残るのか、という問題なんだと思う。そして結局この世は大切なもののために戦うしかなくて、大抵の場合負けて終わるだけの場所なんだな……と暗澹たる気になる。負けたくないなら勝ち馬に乗じたり、コウモリになって勝ち側の方法を盗んだり、まぁ、そういうことをするしかないように私には見える。そしてそれは非常に面倒で不誠実かつ孤独な行為であり、多くの場合に積極的にやりたい美しい方法ではなかったりして、切ない。もうほんと本屋がアレな本で保ってる話とか、みんなそんなに責めないであげてよ! この世はきれいごとじゃないんだぞ! と私は心底思ってしまうよ。

というわけで、自分の中で今最も折り合いがつかないところを、すごく的確に(もちろん問題の規模は違うけれど)文章にしてくれていて、泣けてしまったのでした。最後の、ある種の励ましのような、言葉も。

 

 

渡辺あやさんは、『ワンダーウォール』について、こう述べる。

大切な場所と、それを奪おうとするものの正体、そして守ろうとする人々の気持ちのことを書きたいと思った。

 

とてもうつくしい物語だったと思う。うつくしくて、切なくて、結局答えはどこにもなくて、自分でなんとか探してゆくしかない、のだった。