東京物語

三宅香帆のブログです。京都の大学生活から東京のOL生活に至りました。新刊『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』発売中です~

2010年代、ネオリベアイドルの誕生―AKB48・乃木坂・欅坂・日向坂はなぜ流行したか?

※こちらはいつかどっかで書きたかった、てかなんなら本で書きたかった新自由主義とアイドルと2010年代のコンテンツの話です。書く場を失ったうえに2021年になっていい機会なので放出してみます。笑 
たのしんでいただけたら~。



はじめに――2010年代のアイドルはネオリベの夢を見るか?

 

新自由主義、ということばをよく聞くようになったのはここ数年のことのように思う。

 

ネオリベ。自己責任。個人主義。競争社会。全員が市場原理に巻き込まれ、市場価値が隅々まで行き渡った社会。だからこそ市場価値がないとみなされた存在が隅に追いやられてしまう社会。頑張らないと生きていけない、なぜなら市場はどんどん私たちを取り込んでくるからだ。

「わ、考え方がネオリベっぽい」と私たちが言うとき、ネオリベはポジティブな意味を持たない。それはあまりに自己責任を重視しすぎる、セーフティーネットのない競争社会を指向しているよね、という確認である。

新自由主義」っていうと一般的には、80年代のサッチャーレーガンの時代の話だ。では日本の話はどうかといえば、たとえば上野千鶴子は、小泉改革やその後の時代の格差拡大を伴う政策――つまりは2001年代以降の政策のことを「ネオリベ改革」として説明している。(2013年刊行『女たちのサバイバル作戦』より)

女たちのサバイバル作戦 (文春新書 933)

女たちのサバイバル作戦 (文春新書 933)

 

 上野千鶴子にならってネオリベ的な政策が誕生したのが2000年代だとすれば。その結果が私たち民衆の間に本格的に広まったのは、おそらく2010年代くらいだろう。

しかし私はネオリベについてつらつら述べたくてこんな文章を書いているわけじゃない。私は2010年代のアイドル流行の変遷――AKB48グループ、乃木坂、欅坂、そして2020年に台頭しつつある日向坂46――の軸は、結局「私たちが新自由主義とどう距離をとってきたのか」にあると思っている。

 

なぜ彼女たちが流行したのか? マーケティングがよかったから? 事務所がプッシュしたから? それよりももっと、当時の日本のとくに若者を中心する人々のなにか心の奥にある労働者的気分、つまりはネオリベ的なものと、アイドルのありかたが、近しかったからじゃないだろうか、と。

この記事では、AKB48、乃木坂、欅坂、日向坂の流行の原因を、「私たちが新自由主義的な気分をどうとらえてきたか」に求めてみる。10年前、2010年代の初頭から思い出していただきつつ、アイドルオタク的2010年代回顧論として読んでもらえると嬉しい。

 

 

1.AKB48と市場で傷つく少女たち――いや女子高生にドラッガー読ませるなよ


ところであなたは2010年代の幕開け、ベストセラーになった本を覚えているだろうか。

 

AKB48のどセンターこと前田あっちゃん主演で映画化された、こちらの本である。2009年の暮れに発売され、2010年のベストセラーになった。

そして同じく2010年のオリコンCDシングル年間売り上げランキング1位はAKB48の『Biginner』、2位は『ヘビーローテーション』、3,4位が嵐で、5位が『ポニーテールとシュシュ』。

 

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(へ、平成~~~~~。と言いたくなる動画……あああれなちゃん……)。

 

名実ともにAKB48がトップアイドルになった2010年。ベストセラーになった本は、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』だった。しかしこの本をあらためて読んでみると、めちゃくちゃネオリベ的なのである。

あらすじは、弱小野球部のマネージャーになった女子高生が、ドラッガーの『マネジメント』を読み、企業のマネジメント制度を野球部に使用することで勝利へと導く……というもの。そこにはたとえば「野球部にとっての顧客って誰なのかな?」「観客じゃないかな」なんて会話が登場する。「マネージャーは顧客や従業員のニーズをくみとって、組織の目的を定めなきゃ」と、女子高生みなみちゃんはマーケティングを学ぶ。

しかし冷静にマジレスをすれば、野球部は企業ではない。(もちろんこんなマジレスをつけるべき本ではないのは百も承知なのだが)。野球部は、けして企業のように、誰かに価値を提供するための組織ではない。学生が、野球をするための場だ。だけど本書はそこに、強引に「価値を提供する相手」を登場させる。そして読者に「なるほど、じゃあ今の自分にとっての顧客って誰だろう」と考えさせる。

新自由主義ネオリベラリズムの特徴は、私たちを一人残らず、市場に引きずり込むことだ。だれもが競争社会の一員で、ほんとうは競争しなくていいはずの場所ですら(福祉が守る場所すら)、競争させられる。そして生き残るための努力をしなきゃ生き残れない、というシステムに巻き込まれる。

野球部がなぜか「顧客」を設定したように、私たちもまた、なぜか「顧客」を設定させられる。本書が2010年に流行したのは、そんな「ふつーの女子高生も、あなたも、みんなマーケティングを学んで、市場に適応していきましょうね!」という空気をうまく汲んだからではないだろうか。

 

そしてこのいかにもネオリベ的物語の映画化にAKB48がキャスティングされたのは、決して偶然ではないと思う。

 

ちょっとださい言い方になってしまうが、AKB48は、「新自由主義のなかで誕生したアイドル」だよな、と私は言いたい。

モーニング娘。松田聖子山口百恵といったアイドルたちとは違う、AKB48の大きな特徴といえば「大勢の女の子を集めて、競争させる」というフォーマットだ。私たちが想像する以上に、AKB48のメンバーは「市場のニーズを汲んで自分で自分をプロデュースすること」を求められる。誰かえらいおじさんがキャラを作って、それに則った発言をするようなアイドルではない。とにかく自分で自分を売り出すアイドルだ。

そしてその結果が、ファンの握手会や総選挙といった「市場」の売り上げに反映される。SNSも本格的に流行り始めた時代だったため、AKB48のメンバーは、今でいうインフルエンサーの先駆けのような、SNSやブログを使ってファンを自分で増やすアイドルでもあった。

たとえばAKB48のメンバーは人数が多いため歌番組などでもほとんど自分でメイクをするらしい。韓国のアイドルは髪型までプロデューサーが決めるというが、AKB48は自分で本番のメイクまでするのである。プロのヘアメイクさんはどこへ!? と素人からすると驚いてしまう。ちなみに、AKB48Gの卒業生は、意外と経営者として成功しているメンバーが多い。もしかするとこうした市場の需要をなんとなくつかむ素地ができているからかもしれないな、と思う。

握手会の券を買ってもらい総選挙でどうやって得票するか自分で考え、そして順位をつけられることに傷つきながら、それでも自分の夢を追いかける。いかにも新自由主義的な競争社会で生きる少女たち。それがAKB48のコンセプトだった。

 

総選挙のスピーチも朝の情報番組で放映されたり、過酷なステージ裏がうつされたドキュメンタリー映画が話題となったりと、絶え間ない競争社会できりきりと踊る少女たちの姿はたしかに人気を博した。

 

ではなぜ彼女たちの市場で傷つく姿は、こんなにも広まったのか。それは私たち自身が市場で傷つく姿を投影していたからではないか。と、10年経った今、思ってしまう。AKB48の少女たちが夢をみるとき、市場で戦い、傷つくことを求められる。それは、お茶の間にいた私たち自身が、市場で傷ついていたからではないのか、と。

ものすごく雑に時代論を言ってしまえば、当時は冒頭に述べたようなネオリベ政策の影響で、格差も仕方ない、順位が下の人間は非正規雇用も仕方ないのだと言われた時代だった。私たちは、知らないうちに、傷ついていたのではないだろうか。市場でないがしろにされることに傷ついていたからこそ、私たちは、市場に傷ついて、だけどそれでも夢を見る少女たちに、自分を投影し、惹かれていたのではないか。

 

ちなみに非正規雇用の女性が主人公である津村記久子の小説「ポトスライムの舟」が芥川賞を受賞したのは2008年、企業を舞台にした池井戸潤の小説『下町ロケット』が直木賞を受賞したのは2011年、就職活動をテーマとした朝井リョウの小説『何者』が同じく直木賞を受賞したのは2012年。どうもこのあたりの2010年代初頭で、2000年代以前に流行った愛や恋といったテーマとは異なって、「労働や市場(お金を稼ぐこと)が、自分たちにとって重要なテーマだ」とみんな勘づいていたのではないか、と私は思う。アイドルだって、労働する少女だし。

 

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2.乃木坂46と市場からの逃走――逃げ恥とコンビニ人間の2010年代中盤


2011年に結成された乃木坂46が、はじめてミリオンセラーを生み出したのは2016年のことだった。橋本奈々未卒業シングル『サヨナラの意味』。

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(ああななみん………。わたしは乃木坂ではいちばんななみんが好きです……)。

 

前年の2015年に『君の名は希望』で紅白初出場。2017年に『インフルエンサー』でレコード大賞。つまり乃木坂46の躍進、流行は、2010年代中盤の出来事だった。

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その乃木坂46のメンバーを追いかけたドキュメンタリー映画を観ると、彼女たちには一貫した物語があることに気づく。それは「乃木坂に入る前は、居場所を見つけられなくて孤独だったけど、乃木坂に入ることで居場所を見つけられました」という物語だ。

 

こんな美少女たちが居場所を見つけられないっていったいどういうことなんだ……とつっこみつつ、彼女たちの物語はつねに「乃木坂46が、外界では見つけられなかった私の居場所だ」という言葉に支えられる。AKB48がむしろ外界から隔離されて競争の場としていたのとは正反対だ。つまりAKB48グループはそのフォーマットそのものが「市場」だったのに対して、乃木坂46のメンバーは、どこか乃木坂という場を「争わなければいけない市場からの逃げ場」と見ている。

秋元康が作成する歌詞もまた様相が異なる。AKB48グループの曲が「Biginner」や「RIVER」のような戦う少女たちの歌詞だったのに対して、乃木坂46には「君の名は希望」「シンクロニシティ」のような、誰かに寄り添う主人公を描いた歌詞を提供することが多い。おそらく彼女たちの発言やグループとしての特徴をとらえてのことだろう。

 

外の世界では孤独を感じていた美少女たちが、はじめて見つけた居場所。それが乃木坂46という物語だった。

 

私はこのグループが2010年代の中盤で流行したのは、これが時代に合った物語だったからだと思う。

先日SPドラマが放映されていたTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が爆発的に人気になったのは、乃木坂がミリオンセラーを出した2016年のことだった。また同じく2016年、『コンビニ人間』が芥川賞を受賞し、ベストセラーとなる。2016年に流行したこの二つの作品に共通したテーマは、まさしく「市場からの逃走」だ。

うまく就職市場に乗っかれない、うまく恋愛市場に乗っかれないふたりが邂逅し、知恵と工夫をもって居場所を見つけていく「逃げ恥」。ふつうに生きてたら人とうまくかかわれないが、コンビニという決まったオペレーションに守られた空間ならばちゃんと居場所を見つけることができる『コンビニ人間』。どちらも、「自由に競争しろといわれたらうまく乗り越せない人々が、あえて市場から逃げることで、自分の居場所を見つける物語」である。

だから平匡さんはアプリで恋人を見つけないし、みくりは普通の就活だったらなかなか職を見つけられないし、古倉はコンビニを「はじめて人間として誕生した」空間だと感じる。同じように、乃木坂46のメンバーもまた、殺伐とした元の場所から逃げて、乃木坂という居場所を見つける。そしてファンもまた、少女たちが仲の良いユートピアのような空間を、乃木坂に見出す。

自由に競争しろって言われるこの市場から、逃げたい。そしてどこか安心できる場所で居場所を見つけたい。――そんな私たちの欲望が、「逃げ恥」を、『コンビニ人間』を、そして乃木坂46を、発見せしめた。のではないだろうか。

 

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3.欅坂46フリーランスの孤独――黙ってたらトランプ政権

 

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2015年にデビューし、翌年2016年には『サイレントマジョリティー』という曲で一躍トップアイドル集団に躍り出たのが、欅坂46というグループだった。

 

(私は『世界には愛しかない』と『二人セゾン』が好きでねえ……。ああーねるちゃん………)。

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じわじわと人気を爆発させていった乃木坂46を横目に、欅坂46が一躍有名になったのは、『不協和音』という曲が流行した2017年、2010年代も終盤に差し掛かっていた。

 

欅坂46の歌詞は、つねに主人公が「集団」との軋轢と孤立を繰り返す。

 

サイレントマジョリティー』では「集団から独立し、一人になって声をあげろ」と言われ、『不協和音』では「僕は集団に対してNOを言う」と宣言している。しかし『アンビバレント』では「一人でいたいけど、やっぱり一人ではいられない」と愚痴り、『黒い羊』に至っては「集団にNOを言って一人になるのはつらい……」と弱音を吐く。そして欅坂46最後の曲『誰がその鐘を鳴らすのか?』では「誰もまだ鐘を鳴らせていない(=集団に本当の意味でNOをつきつけられた人はいない)」ことを知らせる。

いかにも日本的な、同調圧力に対してどうやって個人を守るのか? という物語にも読める。(古くは夏目漱石なんかがテーマとしてきた、いかにも日本っぽい主題である)。だけど一方で、新自由主義という「個で自由に競争せよ」と言われ続ける社会が浸透してきたからこそ、欅坂46の歌詞はこんなにも若者に刺さったのではないだろうか。

 

2010年代後半から終盤、働き方改革と声高に叫ばれ、「副業」や「フリーランス」といった働き方がもてはやされた。会社や組織に頼らず、個で稼げ、と説かれる。それはまるで欅坂46の歌詞のように、「個であれ」と私たちは命令され続ける。自分の意志を持て、グローバル化社会のなかでうまく市場を乗りこなせ、ブラック企業に搾取されるな、株とか投資とかちゃんとやって自分の老後資金は自分で稼げ。集団に頼るな、と。

だけど同時に、集団から離れるのは、つらいのだ。

ほんとは会社のなかで白い羊のように群れていたい。働いてたら自動的に年金で暮らせるようなシステムに取り込まれていたい。長いものに巻かれたい。大きなものに守られたい。

でもその「大きなもの」すら、もう見つからない。乃木坂46のように、私たちだけの居場所だなんてやさしくてぜいたくな空間、どこにも見つからない。美少女がお互いを慰めあうのなんてテレビの中のファンタジーであって、本当はもっともっと切実に、個で生きるのは、集団から離れるのは、しんどい。――そのしんどさを、欅坂46は、平手友梨奈さんという「個」をスターとしながら、彼女が集団の中で苦悩する姿とともに歌った。

就活や会社でつらいときに『不協和音』を聴いた、という話を私はたまに聞く。それはつまり、のほほんと労働することを許されない、黙っていたら組織に搾取されてしまうが、総選挙で上にのし上がる=市場を乗っ取るほどの気力もない、そんなそれぞれの「個」の姿ではなかったか。

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欅坂46が流行した2016年から2019年は、ちょうど社会情勢で言えば、トランプ政権・安倍政権の時代とそのままかぶる。2018年には『万引き家族』がカンヌ最高賞を受賞、2019年には『パラサイト』が公開されていたが、どちらも社会のなかで取り残された「個」の存在を描いていた。

社会における「集団」と「個」のバランスが崩れてゆく、そんな時代の産物が、欅坂46だったのではないだろうか。……どうでしょう。

 

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4.日向坂46と冷たい市場のささやかな幸せ――炭治郎もNiziUも目指すもの


そして2010年代は終わり、2020年。新型コロナウイルスは流行し、トランプ政権も安倍政権も終了し、2009年から連続出場していたAKB48紅白歌合戦に出場せず、欅坂46平手友梨奈さんはグループから脱退し欅坂46というグループ自体が消滅し(「櫻坂46」に改名した)、そしてなにかの時代を終わらせるかのように乃木坂46のトップアイドル・白石麻衣さんも卒業した。

 

2020年、世間的には新型コロナウイルス一色の年だったのだろうが。私としては、なんだかAKBも乃木坂も欅も、2010年ごろから脈々と続いていた一時代が一区切りついたような、それが2020年であることがなんだか必然だったような、不思議な気持ちだった。2020年、46,48グループオタクとしてはけっこう激動の一年だったのですよ……。NMB48のアカリンも卒業したしさあ。

もちろんAKB48グループのことをまだまだ応援してるし(ゆきりんyoutube動画は革命的でしたね!? あと鈴木ゆうかりんに期待)、乃木坂46の四期生みんなかわいいし(『I see…』、大好き!)、櫻坂46の新曲とてもよくてびっくりしたし(『なぜ恋をしてこなかったんだろう?』めちゃくちゃいいですよね)、各グループのなにかが終わったなんて言うつもりはない。ここから、のメンバーがたくさんいる。

そしてまさにここから、のグループとして、乃木坂46欅坂46の妹分である日向坂46が存在する。

日向坂46は、「けやき坂46」という欅坂46のアンダーメンバーだったグループが改名して2019年に生まれた。そして2020年、紅白歌合戦に二回目の出場を果たし、まさに今からAKBや乃木坂欅坂のごとく売れるか売れないか、という場所にいるアイドルだ。

 

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曲を聴いてもらえたら分かるのだが、彼女たちの曲に、思想性はマジでない。「ハッピーオーラ」をコンセプトとする日向坂46の歌詞は、とにかく「恋した」「キュンときた」「好き!」という彼女たちの明るさを照らすものになっている。

乃木坂や欅坂でわりと哲学的な歌詞を書いていた秋元康はどこへ、と言いたくなるほどの「とにかく明るい日向坂」っぽい歌詞なのだが、その明るさこそが、むしろ今の時代に求められているものなのか、と考えられる。

 

2020年に大流行した『鬼滅の刃』なんかを見てても思うのだが、主人公がとにかく優しく、繊細なのだ。もう誰も死なせない、という台詞もあったが、主人公・炭治郎は、自分の夢のために努力をするわけではない。彼は「誰も死なせない」ために努力を重ねる。ここに新自由主義という補助線を張ると、彼はぼーっとしてたら(努力しなければ、弱いままでいたら、お金がなければ)搾取され、自分の大切な人まで奪われることを知っている。だからこそ強くなるために努力する。それは決して、自分の夢のためなんかじゃない。家族で暮らすというささやかな幸せのためだ。

日向坂46もまた、市場のなかで大それた自分の夢をかなえることなんて歌わない。個になれなんて言わない。キュンときた隣の席の可愛いきみに、ハッピーにしてもらえたら、それだけでじゅうぶんなのだ。

だから日向坂はひたすら「ハッピーオーラ」だけを届ける。乃木坂や欅坂と比較すると日向坂はバラエティ番組で活躍するメンバーが多いのが特徴的なのだが、バラエティ番組という「ただ笑うことを目的とする」フォーマットを得意とするのも、なんだかますます、ひたすら明るい日向坂という一面を特徴づけている気がする。

新自由主義という冷たい風が吹く現代、しかもコロナウイルスの流行によってますます殺伐とする2020年。だからこそ日向坂46は、陽射しのあたる場所を作る。あえて思想の入り込まないひだまりを。そこだけはあたたかい、ハッピーオーラにあふれた、明るい空間を。だから笑いにも特化する。

そういえば、2020年の流行したアイドルグループNiziUの曲も『Make you happy』というタイトルで、奇しくもテーマはほとんど日向坂46とかぶる。きみを幸せにするよ、笑っているのがいちばんだよ! と。目指す場所は、ただの幸せ、だ。

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もうだれも、市場で誰かが傷ついたり、出し抜いたりするのを見たくない。そんなの、もう、現実でお腹いっぱいだ。せめてアイドルくらいは、楽しく優しく明るくあってくれ。

……そんなふうに私たちは欲望する。だからアイドルは今日も、ステージの上で、テレビの中で、笑ってくれる。

 

 

おわりに――秋元康の手腕じゃなくてさ


ここまで書いてきたら、絶対言われるのが「いやこれ秋元康マーケティングやん」という話なのだが。48,46グループって秋元康グループでしょ、秋元康がみんなの需要をマーケティングした結果、こんなふうに需要に応えるアイドルがつくられたんでしょ、と。

でも私は、たしかに秋元康マーケティングもあるんだろうけど、一方で、意外とこれって「少女たちをたくさん集める」という力学によるものなんじゃないか、と思っている。

というのも、48,46グループのファンでいればいるほど、秋元康の場当たり的な、ある種、放送作家的な「とりあえずフォーマットを用意して、その場で演者たちが動くさまを見て、いちばん面白そうな線を採用する」手法を見ることになる。たとえば乃木坂46や日向坂46が、述べてきたような路線のアイドルグループにしようと思ってつくったグループだとは、到底思えない。少女たちのキャラや、人気の出るタイミングを見ながら、「こんな歌詞はどうかな」「こんなコンセプトはどうかな」とあくまで場当たり的にプロデュースしているように見える。(もちろん、たとえば映画やドラマに出演させたり、バラエティや写真集を用意したり「人気の起爆剤となる」場を作ることはしている。が、コンセプトにおいてはものすごく曖昧に進めているように見えるし、欅坂みたいな、最初から物語がはっきりしているグループは例外的だ)。

どちらかといえば、少女をたくさん集めることによって、市場――つまりはファンやオタクや世間なわけだが――にいま誰が好きかを決めさせる。その市場の感覚を重視することが、新自由主義時代のアイドル像と、かちっとハマったんじゃないかと思う。(たとえば「もう誰がセンターか、ファンに決めてもらおう!」とAKB48の総選挙が始まったエピソードは有名だ)。

KPOPの進出も甚だしいし、おそらくまた、2020年には勢力図も変わるだろう。新自由主義的な風潮もどうなるかわからない。

だけど2010年代には、たしかにたくさんのアイドルたちが、新自由主義の冷たい風が吹きすさぶ日本で、私たちをすくおうとしてくれたのだ……ということを残しておきたかったのだ。書けて良かったあ。

「推し」なんて言葉にはちょっとあぶなっかしい気持ちに私はなるのだけど、それでも好きな女の子たちがそこにいてくれるのはありがたいことです。2020年代も、ちょっとでもアイドル界が楽しいといいな。

今年もたくさん考えたい(あるいは面白い本に出会う方法)

たまに「どうやって読む本を選んでるんですか?」と聞かれることがある。

 

本を読むのが好きです、できるだけ面白い本を読みたいです……と私がいつも言ってるもんだから、じゃあてめえはどうやって面白い本に出会ってるんだよ、と思われるのかもしれない。もちろん本にもあたりとはずれがあり、最高だ面白すぎると思うものもあれば、ばかやろうなんも新しいもんないじゃねえかと投げ捨てたくなるような本もある。私はできるだけ、前者の本に出会いたい。

だけどできるだけ面白い本に出会いたいと思うとき、一方で必要なのは、それを面白いと感じられる自分の素地だったりする。つまりその本が描いているテーマに興味がなければ、どれだけ面白い筆致でものを書いていても、「ふーん」で終わってしまうことが多い。この世で泣ける恋愛小説が売れるのは、恋愛の切なさに興味を持つ人間が多いからである。

 

私には、考えたいテーマというものがいくつかある。そしてそれに沿って、読む本を選んでいる。

男と女の承認欲求や自意識のありかたって、どうして、どのように違うんだろ。どうすれば大学の学問は社会の役に立つって認めてもらえるのだろう。なぜ日本はまじめな人が多いわりに組織になるとぐだることが多いんだ。なんで私はアイドルがこんなに好きなんだろう。なんで父は息子に嫉妬しないのに母は娘に嫉妬するんだろう。日本の男性作家はどうしてこうも少女が好きなんだ。なんでみんな働いてるわりに愛や家族にくらべて労働は文学のテーマになりづらいんだ。どうして育児はみんな話題にするのに介護はこんなにも見過ごされているのか。結婚はどうしてこうもルッキズムと結びつきがちなのか、あるいは結びつかないことを主張されたがるのか。どうしたら、人は孤独じゃなくなるんだろう。

 

私は主張したいわけでも批判したいわけでもなく、ただ、納得したいのだ。ああそういう原理だったのか、なるほどね、と。分かりゃあいいのだ。だから考えたいのである。

 

人間について考えたいことはたくさんあるし、小説や漫画は物語というメタファーを使ってそのあたりを一番深掘ってくれる。だから信頼している。新書もエッセイも学術書も、考えたいテーマについて書いているなら、そしてちゃんと考えている人の文章なら、やっぱり面白い。

 

究極、会社に行くのも人と会うのも生きているのも、考えるためのデータがほしい、面白く本を読むための材料がほしいからだ。人生は長いので、考えたいテーマは多ければ多いほどいい。そうすれば続きを知りたくなるから。

 

今年もたくさん考えたい。なにかを読んで、書いて、たまに体験して。なるほどね! と納得できた時がいちばん生きてる実感がわく。

 

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします、ね。

柏木由紀さんのメイク動画のおかげで、健康になった2020年

2020年は、健康になった年だった。だれのおかげでもなく、ゆきりん――AKB48柏木由紀さんのおかげである。

 

ゆきりんと健康。といっても、これは「推しのおかげで元気になりました!」みたいな話ではない。ちょっとまどろっこしいけれど、経緯を説明しよう。2020年の終わり、誰に感謝を述べたいかって思いつくのはまず私はゆきりんだ。ミルクボーイ風に言えば元旦に誰の健康を願うかと言えばまずゆきりんなのである。

普段、私は本を読みものを書くことを生き甲斐としている人間である。多くの読書好きがそうであるように、万年肩こり・腰痛・おまけに目の使い過ぎによる頭痛を患っていた。読書好きへの偏見を晒しましたが。ていうかそもそも本は関係なくとも貧血気味で冷え性なので、けっこうそれだけで不健康みたいなところはあった。

しかしまあ、肩こりは小学生以来の付き合いだし、貧血でばたーんと倒れるみたいなことは中学生のころからあったし。10代のうちから「この先、体が100%健康です! という状態を迎えることは一生ないだろう」と悟っていた。

ところがどっこい。2020年はやってくる。

まだ新型ウイルスの噂が「なんか中国で流行ってるらしい」くらいのテンションだった冬頃。私は人生で何度目かの「貧血でばたーん」をやらかした。しかも今回は電車の中。一緒に電車に乗っていた仕事相手の編集者さんは、目を丸くし、焦っていた。当たり前である。私にとっては人生で何度目かの貧血であっても、相手にとっては、電車のなかで突然ぶっ倒れた人である。あかん。しかもさっきまで楽しくお酒を飲んでいた仲なのに。

さらにその晩、タイミング悪く、ほうっておいた虫歯がずきずき痛み出した。人前で倒れた罪悪感はあるわ、歯は痛いわ、仕事で忙しくて寝れていないから疲れてるわで、もう、なんか、「だめだこれは!!!!!!!!」と万年不健康児の私はベッドの中で叫んだ。

だめだこれは。このままでは生きてゆけない。

まだ26なのに、こんなに疲れていては、この先、ぜんぜん生きていけない……。これからもっと体は老いてゆくのに。今が一番若いのに。だめだ。なんとかして健康にならないと。

 

ここで一念発起して健康のための対策を始めました! という話になればいいんだけど、人生は忙しい。なかなかやってくる日常にかまけていると、「あ~~~どうにかしなきゃな~~~」と頭の片隅で思いつつ、なんもできない、という日々が続いた。会社の仕事も書き仕事も山積みだったのだ。

しかしあなたも私もご存知の通り。春ごろ、STAY HOMEの波がやってくる。

会社もありがたいことに在宅勤務にさせてもらえたし、副業のほうで予定されていたイベント系の仕事が一気にキャンセルになり。ちょっと忙しかった仕事が落ち着いたタイミングだった。余裕が出てきた私の目に飛び込んできたのは、柏木由紀さんのメイク動画だったのだ。

 

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いや、端的に言ってものすごい。

何がものすごいって、自分の直したいところ——つまりは自分のマイナスを直視し、それをメイクという技術によって、自分の納得いくかたちでなくしているところである。

ものすごくないか。こんなこと可能なのか。アイドルはしばしばそのメイク技術が高いことが女の子の羨望の理由になるけれど(とくに大人数のアイドルは、自分たちでメイクしてテレビに出ることが多いらしい)。それにしたってゆきりんはものすごくないだろうか。たしかにメイクする前と後で印象が全然違う。もちろんビフォーもめちゃくちゃ可愛いけど、でもアフターはたしかに変わる。技術だ。

私は思った。「自分のマイナスだと思っているところって、こうやって、なくすことができるのか……」と。

 

伝わるかどうかわからないのだけど、私にとってメイクは「プラスを増やす」ものであり、「マイナスをなくす」ものではないと思っていたのだ。

たとえば瞼にラメをのせてテンションを上げる、とか、唇に自分のパーソナルカラーに合った色をのせることで血色感が生まれる、とか、頬にハイライトをのせることで艶を足せる、とか。そういう、美しさや楽しさを加点する、1を100に近づける作業だと思っていた。

でもゆきりんのメイクは、「マイナスをなくしていく」作業だ。自分にとってここはマイナスだと感じる箇所を、丁寧に、修正して解消してゆく。もちろんそんなの一般人からしたらマイナスのうちに入らないし、かわいいと思う箇所だけれど。ゆきりんは繰り返し、ここは自分にとってのマイナスだから直したいだけなのだ、と言う。

 

 カワイイは作れる。という言葉の内訳に、(自分にとって)カワイくないところを、なくせる! という意味があったことを、はじめて知った。

 

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ひ~~~~~。かわいい~~~~~。すごい~~~~~~~。かわいい~~~~~~。ものすごい~~~~~~~~。

youtubeで次々と繰り広げられるゆきりんのメイク技術を眺めながら、私は人生ではじめて私は思った。「自分も、自分にとってのマイナスって、なくせるのかな……」と。

自分にとっての、今一番のマイナス。それはまぎれもなく、10歳くらい——というか物心ついたときから付き合っている、肩こりであり、貧血であり、不健康だった。

 

正直、体の健康なんて、25歳まではどうでもよかった。人生なんて、本を読めたらそれでよかった。体なんてじゃまだなあ、頭だけ動かせたらいいのになあ、と本気で思っていた。だから健康のために費やす時間が、もったいない、と感じて時間とお金を費やせなかった。健康なんていらなかった。

でも一方で、人生は長い。ふつうに生きているだけで電車で倒れてしまう。ふつうに本を読んでたら肩こりで病みそーになってしまう。ふつうに生きてるだけでマイナスは向こうからやってくる。だからこそ、人生にプラスを与えるためというよりは、「マイナスをなくすため」に、健康に時間を費やすようになったのだ。

不健康はマイナスだと、気づいてしまってはしょうがない。私は調べた。そんでいろいろ試した。

 

結果として、とりあえず私は今とても健康である。

正直、在宅勤務になって通勤電車の時間がなくなったり出社によるストレスが減ったのも大きいけど。でも毎日ひきこもってるにもかかわらず、肩こりもものすごくましになった。朝起きたときにくらっと眩暈がするみたいなこともなくなり、なにより起きている時間の「なんか体が重い」感じが格段に減った。ついでにダイエットも功を奏し痩せた。やったね。

ゆきりんのおかげで、「自分のマイナスをなくすぞ」と思えたおかげで、リングフィットで運動するようになった。人生で初めて自主的に運動したいと思って、youtubeの筋トレ動画や、コロナが落ち着いた時にちょっとジムに行ったりもしたのだけど、結局家で人(リングフィット)に指示してもらえる運動がいちばんだと気づいた。リングフィットは運動苦手な人におすすめです。フォームローラーや頭のマッサージ器も肩こり解消に良かった。

あとは貧血の人は結局たんぱく質がたりないのだみたいな話を読んで、できるだけ肉や豆腐を食べるようにしたり。私はほっておくと甘いものをごはん代わりにする人間なのである……。

メイクやスキンケアもちょっと変えてみて、自分に合ったものを探して、それも楽しかった。自分は調べることがそもそも好きな人間なんだと気づいた。調べて試して仮説を検証する、みたいな試行錯誤がそもそも好きなのだから、それを頭の中だけじゃなくて、自分の体で実験してみればいいのだと気づけた。

 

 

ずっと、人生は配られたカードで勝負するしかないから、得意分野を使う場所を、いかに増やせるかがいちばん大切だと思っていた。そして好きなものでテンションを上げて、人生が嫌にならないことが大切なんだ、と。

でも一方で、配られていないカードもまた、自分の手で補ってゆくことができるのかもしれない、と今年はじめて思った。マイナスをゼロにすることは難しくても、マイナスが気にならない程度になることは、ある。

マイナスをなくすことがこんなに快適だとは知らなかった。マイナスがなくなれば、もっとプラスを伸ばそうとも思える。素直に来年は自分の得意分野も頑張りたいと思えている。あんなに疲れていた一年前から考えると、ものすごい変化だ。

ありがとうゆきりん。再生回数くらいしか今はお返しができないけど、コロナが落ち着いたら、握手会の券を買って直接お礼を伝えたいです。

 

 

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『心は孤独な狩人』を読んでみつめる今年のこと

アメリカの黒人文学といえば、英文学のゼミで読んで「む、難しい」とおののいた記憶ばかりが残る。

 

たしか題材はフォークナーの短編だった。とにかく英語が難しかった。予習の段階で、単語を調べつつ日本語訳を読みつつでようよう読んだけれど、結局どういう話なんだっけ、と日本語訳をもう一度読み通した。しかも題材も、たとえばサリンジャーフィッツジェラルドのような華やか(と一概に言ったら怒られそうだけど)な青春小説に比べると、黒人社会の差別や貧困、あるいはキリスト教への信心をテーマにすることが多く、なんだかとっつきづらかったのである。黒人ばかりのまちで貧困や閉塞感に苦しむおじさんがテーマだと言われても、はあ、なるほど、と理解したような気になって終わるだけだった。

今思えば、日本も世界も自分も、まだまだオリンピックや経済成長といった言葉がたしかな実感として明るさを持っていた時代だったのかもしれない。たった数年前――そういえばそのゼミを受けていたとき、トランプ大統領の当選が決まったのだった――の話なのだけど。

今年に入って、世界的なパンデミックは起こるし、大統領選ではやたらと「分断」と言われるし、なんだか4年前よりもずっと貧困や差別といった言葉を身近に感じる世の中になってしまった。自分が大学院を出て、社会人になったことも大きいのかもしれない。「ああ、世界はこれからどんどん、大きい企業が隙間を埋めるように、陣地を敷き詰めるようにして、小さなひとびとの場所を奪っていくようになるのだな」「こうして社会に埋められない差は広がってゆくのだな」と暗澹たる気持ちになることが、なんだか多かった。

そんななかで続けて読んだ二冊のアメリ黒人文学――フォークナーの『八月の光』、そしてカーソーン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』は、妙に納得感が深く、そして自分の読みたいものを読んでいるという実感を伴った読書体験だった。今読めてよかった、と思える小説だった。

 

モーツァルトって人がつくった作品よ」
 ハリーはかなり良い気分になっていた。彼は敏捷なボクサーのように再度ステップをした。「それって、ドイツ系の名前みたいだな」
「そう思うけど」
ファシストかい?」
「何ですって?」
「そのモーツァルトって人ってのは、ファシストかナチかって言ったんだよ」
 ミックは少し考えた。「違うわ。そういうのは最近起こっていることだし、この人はもうずっと昔に死んでいる」

(p123『心は孤独な狩人』カーソーン・マッカラーズ著、村上春樹訳、新潮社)

 

 

とくに『心は孤独の狩人』という小説は、はじめて読むマッカラーズ作品だったのだけど。たしかにアメリカ南部を舞台とした小説の例にもれず、貧困や差別、そしてなによりもそれを生み出す、社会の分断というものを描いている。にもかかわらず、どこか語り口はユーモアがあって、ちょっとした面白さをかならず忘れないのである。

舞台は1940年代のアメリカ。そろそろファシストの勢力が強くなり、二次大戦に向かう時代だ。暗くならないわけがない。そして登場するのは、たとえば空回りする活動家、たとえばどうしても精神的に不安定になってしまう少女、たとえば倒錯した性的欲望をもつ男性など、どこか自分の性質に苦しんでいる人々たち。彼らの貧しい生活は続く。アルコール依存症銃社会、安い賃金。しかし目の見えないひとりの男性――彼がこの物語の中心なわけだけど――が、奇妙に、彼らの孤独を、苦しみを、ひとの心のいちばん暗い部分をすくいとっているのだ。といっても彼らは目に見えてすくわれるわけではない。このすくいのなさこそが、ある意味、そのまんま時代や彼らの閉塞感を表しているようにも見える。聾者の主人公含めた彼らに幸福な結末は、どう読んでも、あまり訪れていない。

だけど読み終わったあと、妙に、癒された心地になる。

それはこの小説が、そして作者が、ひとびとの孤独をちゃんと芯から理解してくれているからなんだろうと思う。

戦争に向かっていく民衆や、アメリカを覆う資本主義の大きな波に、のみこまれきれない人々は、孤独だ。だって戦争や資本主義に全面的に大賛成、その流れに乗ってこうぜ! そしてあわよくば儲けようぜ! と言える人々は、もう、それだけで勝ち組なんだろう。なにに勝っているのかうまく言えないけれど、時代のマジョリティの感性にてらいなく乗っかれるというだけで、ある意味ちょっと勝っている。少なくとも私はそう思う。しかしそこからこぼれ落ちる、そこに乗りきれずにあえぐ人々は、どの時代にもかならずいる。そして『心は孤独な狩人』は、そのような人々を主人公に据える。彼らの行く先は、たしかにこの小説ではハッピーエンドではないけれど。それでも彼らのことを理解している作者の視点があるというだけで、読者としては、なんだか癒されてしまう。

もちろん作者のユーモアやちょっとした哀愁みたいなものが効いているからこそ、私たちはこの暗くてすくいのない小説をなんだか切なく癒される小説として読めてしまうことは言うまでもないだろう。

 

そこで彼ははっと思い出した。店頭の日よけがまだ上げられていなかったことを。戸口に向かいながら、その足取りは次第に確かなものに変わっていった。そして店内に戻ったときには、もう落ち着きを取り戻していた。そのように彼は、朝日が昇るのを静かに待ち受けた。(p389『心は孤独な狩人』)

 

小説の最後のシーンに昇る朝日は、ちょっとした希望も覗かせる。ハッピーエンドではない世界で、それでも希望を失わないなにかが、書かれているような気もしてしまう。こうまとめては、生ぬるく聞こえるかもしれないけれど。

 

八月の光』については、以前書評で書いたことがあるので、詳しく言及するのは避けるけれど。やっぱりこの小説もまた、「一見すくいのない人々を、作者がちゃんとあたたかなまなざしを持って見ているからこそ、なんとなく一筋の光のようなものが見える作品だったのだ。二冊続けて読んで、ふしぎと、2020年の状況ともあわせて、なにかちゃんと実感として希望のようなものが掌に乗っかったような心地になったのは、不思議な読書体験だった。

なんだか今年は、いつも以上に、「社会」について考えることが多かった。分断という言葉がしきりに唱えられたりもしたけれど、「社会は、どうなっていくのだろうか」「結局、誰かの苦しみを私たちは見て見ぬふりをして社会を成立させていたのではないのか」ということを考えざるをえないような、パンドラを箱を開けたような年だった気がする。

世の中はきっともっと悪くなっていくし、ここからなにかがよくなる未来なんてなかなか見えない。――ネガティブかもしれないけれど、まあ、ありていに言ってそんなふうに思っている人も多いだろう。私もその一人だ。

しかし一方で、やっぱり『八月の光』や『心は孤独な狩人』のような小説を読むと、そんな閉塞感ばかりが募る社会でも、それでも誰かの孤独をそっとすくいとることはできる、愛やひとすじの光が見つかる瞬間がある。そう思えるような気がしてくる。慈愛とか同情とかそういったものを知ることができる気がする。人間は根源的には自由だし、孤独だからこそ誰かを理解しようと思えるのだと、思う。

もちろん小説を読んでも現実は変わらない。それでも、現実を見つめる視点を変えることはできる。だからこそ、誰かを、そして世界を理解するために、やっぱり明日も私はなにかを読むのだろう。

 

もうちょっと遠くまで行ってみよう、見れるだけのものは見よう、と決心したんだと思うね、なにしろ今度どっかに落ち着いたら、後は一生どこにも行けそうにないと知ってたんだろうな。

(『八月の光』フォークナー著、加島祥造訳、p655)

 

 

『A子さんの恋人』とあなたの存在は軽いのか

「やはり 答えは君にしか出せないのだ」
(『A子さんの恋人』7巻、近藤聡乃KADOKAWA


のっけから本題から離れる話で恐縮なのだが、ミラン・クンデラの小説に、『存在の耐えられない軽さ』という作品がある。ひとりの男性に対してふたりのヒロインが登場する物語。ふたりはまるで反対の特徴をもっていて、一方はとにかく軽く軽くありたいし他人にとって自分の存在が重いことに耐えられない女性、そしてもう一方は他人にとって自分が代替不可能であるほどに軽いことに耐えられない女性、というキャラクターになっている(と私は解釈している)。だけど小説は描く。自分がここにいることも、相手と出会ってることも、結局は偶然でしかない、ということを。さあ、私たちの存在は、軽いのか、重いのか? どれほど代替可能なのか? そんなことをテーマとした恋愛小説なのである。

 

最近完結した漫画『A子さんの恋人』を読んでいるとき、1巻の最初から私の頭にあったのは、『存在の耐えられない軽さ』だった。『A子さんの恋人』と『存在の耐えられない軽さ』は同じテーマを描きつつ、まるで反転するみたいに、男女を逆転させた構造になっている。『A子さんの恋人』に登場するのは、ひとりの女性に対してふたりのヒーロー。A子さんは、ふたりの恋人――日本にいる腐れ縁のA太郎と、ニューヨークにいる翻訳家のA君――の狭間で、悩む。はたして結婚や自分が求めてる人生が日本とニューヨークのどちらにあるのか、あるいは自分はそもそも結婚もしたくもないのだろうか、と。悩めるA子さんはどちらとくっつくのか? というのが一応『A子さんの恋人』のあらすじである。

 

A子さんは、『存在の耐えられない軽さ』的に言うと、「自分の存在は代替可能であると思っているけれども、代替不可能だと言われたらそれはそうな気がして、まあなんとなくもやもやする」キャラクターだ。A子さんは、本当の名前は「英子」だけど、べつに「A子」と認識されてもいいんじゃない、と思っている。「英子」である必然性なんてないでしょ――つまりそこにいるのは自分じゃなくてもいいのだ、自分は代替可能なのだ、と、べつに悲観的でもなくたんたんと、そう思っている、のだ。

 

「私が「英子」だということなんて他人にとってはたいした問題じゃないのだ
他人にとってえいことか けいことか ゆうこは漠然と
エーコ ケーコ ユーコなのである」
(『A子さんの恋人』1巻)
でも、本当に代替可能なほど、私たちの存在は、A子の存在は、そしてなによりA子にとってA君は、A太郎は、軽いのだろうか?

 

『A子さんの恋人』は、びよーんとのびたお餅みたいに、A子が自分にとって、自分の人生にとってなにが、だれがどういうふうに大切なのかをぐずぐず、えんえんと考える話だと思っている。

 

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(『A子さんの恋人6巻より。餅をたべてるU子ちゃんが好きすぎる)。

 

 

で、最終巻ですよ。最終巻、もう、本当に泣けてきてしまって、ああこのラストに辿り着くために作者はずっとA子にぐずぐずえんえんと逡巡させてきたのだなあ、と思ったのだった。

 

A子は最終巻で、自分のデビュー作の書き直しの〆切を自分で設定する。べつに誰に設定されたわけでもない〆切なのだけど、A子は自分でびよーんと伸びた餅を食べ終わる日を決めるのだ。ちょっと痺れる。それはA子が漫画をはじめて完成させた(デビュー作をA太郎と一緒につくった)ときからはじまる、A太郎との長い長いびよーんと伸びたモラトリアムを終わらせる日なのであって、同時に、モラトリアムが終わるということは、モラトリアムをもたらした何かをうしなう日でもあるから。

デビュー作。いうまでもなくA子はA太郎と自分の関係を描いていて、A太郎の「君は僕のことそんなに好きじゃないんだよ」という発言の経緯を物語にしたのだった。

A太郎はA子さんと同じく、「自分にとって他人は軽い(=代替可能だ)」と思いがちで、そして同時に、「他人にとって自分は軽い(=代替可能だ)」と思い込んで、それによって傷ついている。……これ、ものすごくよくある話だと思うんだけど、A太郎は、他人にとって自分が重いのが怖い、と同時に、でも本当にそうである(と思っている)ことに傷ついているのだ。だからこそ「ねえきみにとって僕は軽いでしょ」って言いたがる。それを確認したがる。そしてそうであることを確認できたら、ほっとするとともに、傷つく。その相手を好きであればあるほど、傷ついてしまう。……とてもよくある話だなあと思うと同時に、でも、そんなこと言って傷つくのは本人なんだけどなあ、と私はA太郎を見ていて思う。

A子さんは自分もおんなじように他人にとって自分は軽いと思っているからこそ、その場では「そんなことない」って言えなかったのだけど、最終巻で、やっと「そんなことない」とA太郎に伝えることができる。私にとって、あなたはちゃんと特別(=代替不可能な存在)だよ、と。そんなふうに自分を軽いものだとして思い込まないで、と。

A太郎の存在をずっと重いのか軽いのかよくわかってなくて、それはたぶん翻ってA太郎にとって自分が軽いのか重いのかよくわかってなかったということだと思うのだけど、その問いに対して、A子はちゃんと「あなたは特別だから、私にとって重いのだ」と告げる。A子にとって、存在は、ちゃんと重かったんだね。

 

かくしてA子に、ちゃんとあなたの存在は重いのだ、と言ってもらったA太郎は、自分にとってもA子は重いんだと理解する。だからこそA太郎は、「ちゃんとA子を失う」決断をする。……私はほんとうにこのラストに泣けてきてしまったのだ。いやもう、泣けませんか。たしかに、モラトリアムって「何も選んでない」からこそ「何も失ってない」最強の時間なんだけど、でも同時に、「何も失わない」ことによって、なにかを特別だと言えてない時間でもある。それによって誰かを傷つけてたりするんだよね。だって「何も選んでない」って、「何も重い=特別だと思ってない」ってことでしょう。

つまり、ちゃんと何かを失わないと、何も得られないんだよな、でも失うって痛いよなあ、でもそれを得ようとしないことによって他人を傷つけることもあるよなあ……と。それを分かることができたA太郎もA子も、すごい、と、泣くほかなかった。泣いちゃうよ。

 

人間、軽くありたいのはやまやまである。重い責任もおいたくないし、誰かにとって自分が代替不可能であるなんて、怖い。それでも、答えは自分で出すしかなくて、そのとき、何かを進める時には、きっと何かを「ちゃんと」失わなくちゃいけなくて、そのぶんの痛みを負わなきゃいけないよなあ、と私は思っている。『A子さんの恋人』は、その喪失の痛みも、それでも進めなくちゃ結局なににもならないことも、でも進めるまではやっぱりぐずぐず迷ってしまうことも、全部ちゃんと描いてくれていて、私にとっては泣けてどうしようもなかった。

ずっとあの部屋で漫画を描いてられたらよかったんだけど。そうもいかない。海に出る人は出るし、ずっと一緒に泳ぐわけにもいかないし。私たちは、代替可能なんかじゃない、たしかに重い存在で、「英子さん」はやっぱり「A子さん」なんかじゃなかったのだ。

忘れることは… 歌集『ビギナーズラック』によせて

北白川を南から北へ、音楽を聴きながら琵琶湖疏水のそばを歩いていくと、ニ〇分もすれば北大路通へ出る。北大路通東大路通の交差点にはミスタードーナツがあって、僕にはそこでカフェオレを飲みながら本を読む習慣があった。試験前の勉強もそこでする程度にはよく通っていた。その近くには新刊書店と新古書店があって、そこで買った本や漫画をひととおり読んだあとにカフェオレをおかわりしてから短歌をつくるのが、僕にとっての歌作の原風景のような時間だった。そこのミスタードーナツは二〇一九年の冬に、コミックショックという新古書店は二〇ニ〇年初頭に閉店してしまったらしい。

 

(阿波野巧也『ビギナーズラック』あとがきp168、左右社)

 

 

忘れることはなくすことだと思う。

記憶なんて一度忘れてしまえば、なかったことになるも同然だ、と感じてしまう。

 

 

たまに、京都に住んでいたころの友達のあいだで、嘆きとともに盛り上がる話題がある。TwitterのTLに、【悲報】なんて文字と一緒に、「京都のあのお店が閉店するって!」というツイートが流れてくるのだ。

京大の近くのブーガルーカフェ。出町柳駅TSUTAYA東大路通りから少し道に入ったところのファミリーマート。三条のAVOCADOが入っていたテナントのお店。それから高野のミスタードーナツ

たぶん大学時代に京都に住んだことのない人からすると、「よくあるチェーン店の閉店がなんでそんなに話題に……」と訝しがられるかと思うのだけど、ほんとうに話題になるのだ。友人から「ねえねえブーガル―カフェ閉店って聞いた~?」とLINEがわざわざやってくるくらい。

でも私たちにとっては、ものすごく主観的に大切なことなんだと思う。京都で大学生活を過ごした人は、たいてい、その学生街には残らずに全国へ散らばる。東京の学生さんはわりとそのまま東京に残る人もいるんだろうけど、京都の学生がそのまま京都にいる割合はけっこう低い。みんな、自分の学生時代に過ごした町は、そのまま自分の学生時代の記憶とともに、そのままのかたちで永久保存されるものだと思い込んでいる。

だけど現実は厳しい。当たり前だけど、私たちはたまに思い出話をするとき以外は京都での学生時代のことなんて忘れて、そしてそれにともなって京都の街も資本主義原理にのっとって形を変える。

せめて町がそのまま保存されてればいいのに(だって京都なんて100年後も同じ風景してそうなんだもの)、町の風景すら変わってゆくもんだから、私たちは自分たちの記憶がそもそも消えてゆくことを棚に上げて嘆く。「えっ、あの思い出のTSUTAYA、なくなっちゃうんだあ」と。

 

 

 

 

ビギナーズラック

ビギナーズラック

 

 

だけど最近、京大出身の歌人である阿波野巧也さんの歌集『ビギナーズラック』を読んだら、ふわっと泣きそうになってしまった。ていうかちょっと泣いた。――私が京都で見た風景が、その感情が、まるっと短歌というかたちになって凍結してあったから。

ここにある風景、ぜんぶ、知ってる。と忘れかけていた京都の学生時代の風景が、ちょっとよみがえってきてびっくりした。

 

カロリーの摂取にメロンパンはいい となりでケンカしている男女

 

実験がうまくいかない ホイールのまぶしい春のサイクルショップ

 

目が覚めて大雨な夜 その雨を聴いてたはずが明るんでいた

 

作者の阿波野さん*1は、1993年生まれの京大短歌会出身。ってつまりは私の一つ上で京大生だったのだから、そりゃ大学で見てる風景は同じだわ……というツッコミは入れたくなる。しかしそれにしたって、たとえば往年の「京大生」の物語――森見登美彦作品にもワンダーウォールにも――どこにも描かれてこなかった京都の学生生活の風景が、こんなふうに保存されてるなんて、びっくりする。短歌ってこうやって使うんだ、と少し驚いてしまうくらい。

私たちの京都は祇園とか八坂神社とか京都タワーとかそんなインスタ映えする場所にあるんじゃない、大垣書店や自転車撤去の音やフレスコや鴨川にあったんだと知った。

 

 ほんとうのことはなんにも言わないでぼくたちは深夜のなか卯なう

 

見てきたことを話してほしい生まれ育った町でのイオンモールのことを

 

変な話、『ビギナーズラック』の短歌に、即物的に京都の地名が使われているわけではない。木屋町、とか、京都駅、とか。だけど、私の知ってる京都は、たしかに、なか卯とかファミリーマートとかTSUTAYAとか、あるいは、家の窓から見える風景とか友達の家で見た風景とか、そういうものである。ほんとに、てきとうにTwitterしたりぼんやりWikipediaみたりだらだら友達と喋ったりコンビニで研究の合間の息抜きを買ったり、そういうものが大学生活だったと思う。

その風景がぜんぶ短歌になっていて、すごい、とちょっとびっくりする。

 

食べかけのままでテレビもついたままでWikipedia見ている春の夜

憂鬱はセブンイレブンにやって来てホットスナック買って食べます

 

ぶっちゃけ、京都での学生生活だけじゃなくて、人生全般において、私はけっこういつもこわい。

私が人生でほんとうに大切だと思うもの――たとえばそこで見た景色や、会話、得た感情、空気そのもの――は、どうしたって自分のなかで消費されてゆく。過ごした時間をぜんぶアーカイブ化することはできない。忘れたくないなと思っても、記憶は忘れ去られてゆく。ていうか現に私が忘れる。なかったことになってゆく。

だけど、だからこそ書かなきゃだめだ、といつも思う。やっぱり言葉にして、ちょっとでも残しとかなきゃだめだ。だって全部忘れてしまう。

そんで、今はもうないミスタードーナツのことを、覚えておかなきゃいけない。

 

 

歌集の最後のほうで、主人公(と言っていいのかな? 短歌の作法があまりよくわかっていないけれど、短歌の語り手)の好きな人は、京都を去ることになる。

もうこの感情に至るまで既視感があってちょっと泣けて来るけれど、まあ、そうやってセンチメンタルって資本主義社会では揶揄されるものを抱きかかえながら、私たちは、明日も忘れ続けるんだと思う。

 

 

きみと過ごしたどの季節にも鴨川があり鴨川をはなれてしまう

 

東京のきみはそろそろ起きるかな 椿の咲いている通勤路

 

 

*1:ちなみに阿波野さんのTwitterは何気にずっと見ていた(私はけっこう短歌を読むのが昔から好き)のだけど、短歌の解説をよくしているアカウントで面白かった記憶がある。Twitterアイコンが『いちご100%』の西野つかさだったことを覚えている……。

文化はすぐに

けさ、朝ドラをみていて、「あーほんとに戦前の日本って、いちばん文化が豊かな時代で、いいよねえ」とぼんやり思った。

この時代が朝ドラに出てくると、ちょっと嬉しくなる。

今回の朝ドラは作曲家が主人公なのだが、戦前に子供時代を過ごし、戦中を経て、戦後の復興にたずさわる……というある種「朝ドラの王道コース」をたどる。大河ドラマを見ている人がなんども本能寺の変を見るように、朝ドラをよく見る人は、「贅沢な大正の子供時代を経て、戦中に苦労し、戦後活躍する」ストーリーをよく目にするのだ。最近だと『まんぷく』、ちょっと前だと『カーネーション』も『ごちそうさん』もそうだ。

朝ドラが描く大正ロマンから昭和初期の時代は、それはもう素敵な小道具にあふれている。NHKの技術さんや衣装さんが腕によりをかけてつくった(たぶん)、洋裁やら着物やら。ちょっと贅沢な家では蓄音機だのオルガンだの自転車だの。たとえ舞台は貧乏な家庭だとしても、町並みはうつくしく、豊かなのである。

実際、朝ドラが舞台セットをつくらずとも、戦前の日本つまりは大正デモクラシーと呼ばれる時代の都会は、それなりに豊かで、余裕があって、なにより文化が大切にされていた時代だったのだろう。私の好きな昭和初期の作家たちも、みんなこの時代の文化の恩恵を経て、戦中戦後文章を書いていたりする。

しかし戦中のシーンになると、だいたいどのドラマでも、みんながもんぺを履き、文化が蹴飛ばされ、しんどい時代が始まる。どの朝ドラでも、このあたりの時代は、暗い空気に包まれる(題材として明るく扱うべき話題ではないと私も思う)。

戦前の主人公は、そんなことも知らず、文化を当然のものとして享受する。「時は大正デモクラシー、文化の栄える余裕のあった時代でした」というナレーションとともに。

 

そう、たとえば谷崎潤一郎は、『細雪』という小説を、国が戦争に向かっていく渦中に綴った。きらびやかでうつくしい関西の町並みを小説のなかにおさめるように。もう戦時中には見られないであろう、豊かな戦前の文化をとじこめるように。

それは彼にとって、「まさか失われるとは知らなかった、だけどもう戻ってこない豊かな文化」を小説という媒体にのこす行為だった。

 

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……ということをふと考えてみて、もしかして「平成は災害も多くあったけれど、それなりにグローバル化が進み、IT化も進み、文化の栄えた時代でした」なんてナレーションが、私たちに、私たちの日常につけられる日が来るんだろうか、と、いう、末恐ろしい妄想が浮かんでしまう。

もしかして、私が享受していた、本と漫画と映画と演劇と音楽とテレビとインターネットとゲームがまばらに跋扈する、外食産業もアパレルも百貨店もスポーツの試合もアイドルのライブもなにもかもがしきりと屋外で楽しまれていた時代は。一過性のもので、文化は、国の非常事態になったら、まず真っ先に、排除されるものなんだろうか。と。

いやウイルスって言ってもそんな、一過性のもので、国の文化がどうにかなるレベルのものじゃないって……と、願うように思うんだけど。

でも、私には正直、半年後の、書店や演劇や映画館やテレビ番組やライブ会場や百貨店やレストランが、どうなってるのか、本当に本当にわからない。

いま流れてる朝ドラですら、「当分の間」、撮影をやめてしまうらしい。あのうつくしいセットすら。

わからないから、こわい、と思う。もちろん命が大切なんてそんなこと分かってるんだけど、ここで、ここまで積み上げてきた「文化」と呼ばれる不要不急のなにかが、一気に、積み上げられなくなってしまうことが、あるのかもしれないと思うと、素直に、こわいな、と思う。

世界が終わるよりも、文化が途切れるほうが、私にとっては実はよっぽどこわい。

だって文化は、積み上がっていくものだ。本来は。ずっと、絶え間のない積み重ねによって、続いて、次が見えてくるものなのに。

 

 

そうはいっても、自分はとにかく積み上げ続けてほしい文化たちにお金を落としていくしかない。せめて。と、こんな事態になってみてあらためて気づく。

SNSにいるオタクの皆様方がいつも「推しにお金を落とさなきゃ!」って言うけど、こんな気持ちかあ、と、自分の行く本屋を推しだなんて思ったことのなかった私は思う。

労働や仕事なんてとくに好きじゃないと思ってたけど、でもやっぱり資本主義のなかだったら、経済がぐるぐるまわっている状態が、経済をとにかく止めないことが、死活ラインなのだ。だったら、どうにか、まずはいちばん手軽なことから、経済を自分のできる範囲でまわすところから、やっていくしかない。健康に気をつけて、手洗いうがいして、家にいて、仕事する。自分にできることをやらなきゃ、と、思う。

 

たくさんの人を生かしている文化にたずさわっている人たちが、本当に、これからも文化を積み上げ続けられることを、切に切に願っている。そのために自分の仕事を頑張って、なにかを買って、経済をまわそう、と。それしかできないけれど。

なんとか、頑張ってきた人たちがみんな、どうか、健康でありますように。どうか、ちょっとでも早く、致命傷にならずに、あんな心配は杞憂だったといえますように。と、ほんとうに、思ったりするんだよ。