東京物語

小津安二郎オマージュじゃありません(期待した人はごめん)。

「どうして今までそれで生きてこれたのか」となんども思った京大での六年間について

六年前、いたいけな田舎娘(私)が京大に入って驚いたのは「どうして今までそれで生きてこれたんだ……」という人間の多さであった。

 

どうして今までそれで生きてこれたのか。

 

京大というのは日本で一番自信家の多い大学である(という話を昔書いたことがある)。*1

ちなみにこれはライフハックなのだけど、職場や知り合いで元・京大生を見たら「ハッこいつ自信家だ!」と思ったほうがいい。基本的に謙虚なふりをしてても自信なさげに振舞ってても、そいつは心の奥底では自分が世界で一番エライと思っている人間である。本当に!

しかし話を戻すと、自信家という生き物は、基本的に出る杭は打たれるこの国で、「自信なさそうに振舞う」という処世術を習得する。それが普通である。

とくに中高なんて、みんな一緒の制服を着て同じ試験を受けて同じよーな場所に帰るわけで、いくら能力があったとて「俺/私、自信ありまーす!」なんて叫んでたら殺されるだろう……と十八歳までの私は思い込んでいた。つーか能力あっても謙虚でいなきゃ殺されるもんだろ、普通。羽生結弦くんを見てみろ。

ところがどっこい。私が京大に来て出会った友達は、「ひょえー」と驚くくらいに自信を隠さなかった。

 

たとえばこれは物理の研究者志望の友人の話。

「京大は五パーセントの天才を育てる場所で、あとの九十五パーセントは遊んで終わるんだよ」と彼が教えてくれたことがある。まぁそうかもねぇ、と私は頷いた。すると彼はこう付け加えた。

「まぁ、俺はその五パーセントに入るんだけど」

……ひょえー。

 

またこれは二階堂ふみ似の美人な友人の話。

仲良くなりたての時、「○○ちゃんほんとに可愛いよねぇ」と私が褒めたことがある。すると彼女は笑ってこう言った。

「私が美人なのは私が一番知ってるから言わなくてもいいよ~」

……ひょえー。

 

いやきみたちの能力値が高いのはよく分かるけど、これまでの人生でそう返事して、白い目で見られたことはなかったのか!? きみたちは村八分にされた経験がなかったのかっ!? みんなゴーイング・マイ・ペース過ぎではないのか。

どうして今までそれで生きてこれたんだ。と、私はいつもつっこみを入れていた。

実際は、村八分にされていても気にしなかったり、そもそも村に入っていなかったり、村八分にされても性格を変える術を知らなかったり、彼ら彼女らも「これじゃあ生きていけない」と思ったり思わなかったりする。スペックが高い人は高いなりに大変なのだ。……というのは、大学で彼ら彼女らと仲良くなるうちに分かったことだけど。

 

そしてこれは、語学の才能があり余っている友人の話。

学部に入りたての時、第二外国語の授業選択について話してる際、彼女は「私、フランス語の○○コースの授業うけよっかな」と言った。その○○コースは上級者向け、とシラバスに載っていたので、私は「わーそれ難しいんだよね、すごいねぇ」と言った。すると彼女はけらけら笑った。

「えーでも私がこの授業とれなきゃ誰もとれないでしょ~」

 

この感覚である。京大に蔓延する、「なんだかんだいっても、俺/私ができなきゃ、誰もできないだろう」という感覚。

これがこの大学の病理の根幹であると私は思っている。

自分なら授業サボっても麻雀してても遊んでも夢見ても変人でも自信家でもやっていけるでしょ、という感覚。

それは野心ではない。ポジティブさでもない。もっと単純な、「自分という存在には意味がある」くらいの根本的楽観視のことだ。他人にできなくても自分にはできる、という感覚。

そしてそれは、私がこの大学で出会った人間たちの、一番好きなところでもある。

 

……だんだん惚気じみてきた。よろしくない。

 

授業をサボることも麻雀とボードゲームで夜を潰すことも古本屋に一日中いることも引きこもることも夜通し鴨川で飲むこともそんで午前中の授業行けないことも、京大っぽくて、いかにも森見登美彦的で、いい大学生活の思い出だけど。それ以上に京大に流れる「なんだかんだ、俺/私ならいけるんじゃない? つーか俺/私以外の人は無理じゃね?」という空気が、私にとっては居心地がよかった。

それは勘違いかもしれない。というかほぼ勘違いである。恋愛初期の「自分以上にこの人を理解できる人なんていない」みたいな勘違いとよく似ている。

若さ特有の万能感。社会に出たら潰される楽観でもある。人生舐めてるぞてめぇ、と、どっかの大人に怒られそうな。*2

だけど私は、「まぁ、自分以外にこれをできる人はいないだろう」という勘違いをしないと、人生なんてやっていけないように思う。

何かをやろうと思ったとき、「自分以外にやってくれる人がいる」なら、何もしたくならないもの!

 

きっと「自分以外にもこれをできる人は沢山いる」ことを知ってコツコツ努力をするようになることも、「自分はできないんじゃないだろうか」と心配して自分の力量を見極めることも大事なことだ。

……大事なことなんだけどさ。

しかし、京都にそんなまっとうな常識溢るる考え方なんて存在しない。素質がそもそもアホで夢想家でロマンチストでピュアで怠け者の人間が集まると、みんなして「まぁ、自分なら、これくらいやれるでしょ~」くらいに思うようになるのである。*3

恐るべき大学の空気。こわっ! 

かく言う私も六年間を通して、マジで図々しく育ってしまった。ぜんぶ京大のせいだ。ってことにしとく。本来もっと謙虚な人間だったのにねぇ。

 

でも、私はここで出会った友人たちの、微妙な不機嫌さとちょっとばかりの凶暴さが、けっこう、好きだったのである。

何度も「どうして今までそれで生きてこれたのか!」と思ったけど、ちょっとはそのまま生きててほしい、気もするよ。

 

というわけで、京大を卒業する皆様、卒業おめでとう。ついでに自分もおめでとう。

 

これからも、あなたができないなら誰もできないよ!

だから頑張ってね、応援しております。

私も京都でがんばりまーす。たまには遊びに帰ってきてね。その時は鴨川か我が家で飲もう、ね。

 

 

*1:ちなみにこちら。→http://tenro-in.com/articles/team/7718就職活動とかなんとか書いてるけど結局私は就職せずにそのまま京大院生になったのだから今読むとちょっとウケる。

*2:実際マッキンゼーの人が書いた『採用基準』という本では名指しで京大生が「あいつら使えねぇ」と怒られていた。笑う。

*3:ちなみにこの空気感の理由としては京大生の資質以外に①そもそもサラリーマンを見ることが少なく社会が遠い②京大が隔離されている③百万遍が何かの磁場に守られている、あたりが考えられる。要はぬるま湯が許される空気なんだよな……よろしくねぇ。