東京物語

三宅香帆のブログです。日々の感想やレビューなど。感想は基本的にネタバレ含むのでご注意を。

ジャスミンがつかまえたハッピーエンドなんだよ――映画『アラジン』を見てきた

 

いったい私はこれ以上強くなってどうすんだろう、とたまに思うようになった。

 

自分のやりたいことをやれるようになりたい、やりたいことをやれる立場がほしい、だれにも邪魔されずになにも文句を言われずにやりたいことをやれる大人になりたい、と昔から願っていた。

いや勝手にやりたいことやったらいいやんけ、と言われそうだけど、意外と世の中そうもいかないもんである。やりたいことをするためには、そのための立場が必要なもんだというのが私の基本姿勢である。能力だけじゃ足りない。

はやく強くなりたい、自分が言われたくないなにかを言われても傷つかないように、自分のやりたいことをやれるだけの能力がほしくて、強くなりたい、と思ってきた。

が、なんだか最近思う。「いや強くなって……だから何!?」と。

 

 

ものすごい矛盾なんだけど、昔よりもやりたいことをやれるようになったら、それはそれで、いいのかこれで、と戸惑うことがある。

基本的にやりたいことをやるのは孤独な営みだ。たとえばそれはみんなが寝てる時間にキーボードを叩くことでもある。基本的に楽しい作業だし、それがどうとは思わないんだけど、なんというか、無性にだれかと共有したい気持ちが生まれる時がある。だけどひとりでキーボードを叩くことを選んだのはほかでもない私だった。

そこにしか自分はいないことをもう知っているし、そこから今更逃れようなんて一ミリも思わないし、そもそも仕事はありがたいことでしかないのだけど、だけどたとえばどんどん睡眠時間が少ない翌朝もなんともない顔でけろっとして過ごすことができるようになり、自分なりに対処法を覚え、そしたらこのちょっとだけ生まれたつらさはどこに行くのだろうと考えると、どこにも行かない。

つまり、私が願ってきた強くなるという行為は、畢竟、弱さをだれかと共有せずに自分のなかに強さに循環させようとする営みでしかないのだな、と分かる。

もちろん強くなれば余裕ができて、他人を弱かった時よりも労われるようになるはずだ。気を遣う余裕と、自分の外を見回せる力がつく。もっといいものが書けるようにもなる(と信じている)。

だけどそうなればなるほど、自分のなかのたまにどばっと溢れるものの行き場が、自分しかいなくなり、いや昔からそうだった気はするのだけど、最近その気配がより強くなったなぁ、と思う。一生こうなのかなあ、とも思う。

……いいのかこれ!? って話である。

25歳女子、オレ、このまま強くなっていいのか!? 海賊王にオレはなっちゃうか!? そんな人生望んでたんだっけ!? と。茶化していうとそんな想いがどこか拭えずにいた。

 

というところで、映画『アラジン』の実写版を見たのだった。

 

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実写版は、さすがディズニー、と頷くほどに現代版『アラジン』へとアップデートされていた。

知性を磨いて力をつけて「この国を守るために国王に私がなりたい」と言うジャスミン。しかし「女が国王になるなんて見たことない、それよりもそのまま美しくいて結婚してくれ、安全に生きていけるように」と彼女を城に閉じ込める父。

アラジンが身分の低い平民からランプの力で王子に変わるところは原作通りだけど、明らかに現代的なフェミニズム的文脈をごりごりに意識した作品に生まれ変わっていた。っていうかラスト!!! さすがに歴史的瞬間を目にしたようでうるっと来た。

で、そうなのだ。

映画のラスト、思いにもよらないところで、私は泣いてしまった。

とくに、最後の台詞で。

 

 

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この映画のすごいところは、ジャスミンが「娘のまま」自分の望むハッピーエンドをつかんでいることだ。

そう、娘のまま強くなることは可能なんだよ、と、ジャスミンは示す。

 

どれだけ稀有なハッピーエンドなのか、それは。

 

 

若い女が強くなりたい、やりたいことをやりたい、と言うとき、しばしば「男になりたい」願望と混同されることがある。

いやそれは「男になりたいんでしょ?」って飲み会の席で言われる、とかじゃなくて。そうじゃなくて娘たちの願望は、周囲そして自分の中でも、「息子になりたい願望」との見分けがつきづらい。しばしば誤解を生む。

たぶん社会の中に、まだ娘でありながらやりたいことをやる型が少ないからだろう。見てないものを想像することは誰だって困難だ。見てないんだから、見えてるものにすり替えて「あなた/じぶんが欲しいのはこれだよね」って差し出したくなる。

 

でも、ちがうのだ。

 

べつに娘たちは、息子になりたいわけじゃない。

だけど娘のまま、やりたいことが手のなかにあってしまうから、だからどうすればいいかわからなくて、立ちすくんでしまうのだ。

息子になるために強くなりたいわけじゃ、ないのに。

 

ジャスミンだって、「父から結婚してくれと望まれ、美しいだけでいいとおじさんに言われる娘」から脱したかっただけで、「息子になりたい」と願っていたわけではなかった。

でも周囲からは、「息子になりたいなんて言わずに、ちゃんと娘のままでいなさい、そのほうが幸せなんだから」と言われる。

ちがうのに。それは誤解なのに。私は娘のままやりたいことがあるだけなのに。

 

っていうか、『アラジン』を見れば分かるけど、そもそも娘は、息子になれないしさあ。

結局のところ。

 

 

 

『アラジン』という作品のテーマでもあるけど、人は自分以外のものになろうとすれば、どこかで破綻がやって来る。アラジンはアリ王子にはなれず、ジャスミンは美しいだけのプリンセスにはなれない。

それが生きやすいか生きづらいかにかかわらず、私たちはどうしたって生まれ持った自分を引き受けざるをえず、その自分以外にはなれない。

でも時にそれを侵害してくる他者がいる。お前はこっちだ、と、自分じゃない誰かにさせようとする他者は、どこかで現れることがある。

その時は、戦うしかない。自分のことは自分で手綱を握られるように。

 

だとすればやっぱり強くなるしかないんだ、と、映画を見たあとは、思う。

 

 

 

現実にはありえないと嘯きたくなるハッピーエンドには「こうありたい」という道筋を人々に見せる効用があるんだ、という話を読んだことがある*1。『アラジン』を見ると、その意味が分かる。

こんなハッピーエンドが実際にあるかどうかじゃなくて、本当はみんながこうありたい型を見せることが、物語のハッピーエンドなんだ、と。

 

 

 

映画のラストで、ジャスミンは言う。

「私がつかまえたのよ」と。

 

現実に、ハッピーエンドをみんながつかまえられるだろうか。息子になれない娘たちも、どこかで、なにかと折り合いをつけられるのだろうか。

これ以上どこにも行けないのかもしれないと思っても、それでも、ちゃんと自分でつかまえるまでは。

意志が連れてきてくれる未来も、たぶんそこに、あると信じたい。だってそうじゃなきゃ、ディズニーが夢を見せる意味なんて、ないじゃないか。

*1:豊島ミホさんのブログに書いてあった。

toshimamiho.info