東京物語

三宅香帆のブログです。日々の感想やレビューなど。感想は基本的にネタバレ含むのでご注意を。

未熟さへの愛慕――『天気の子』による重力の反抗 (※ネタバレ超含みます)

 

 

「最後の『大丈夫だ』ってつぶやくシーンの背景は、雨であるべきだったと思う」

 

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「いやほんとそれ、あそこはせめて豪雨の中で『それでも僕たちは大丈夫だ』って言うべきだったよね」

「陽菜ちゃんの晴れへの祈りが通じた~的な意味かもしらんけど、社会を狂わしといてそれはないよね」

「でもあれが晴れってところが『天気の子』って作品の本質な気がする」

「わかる」*1

 

***

 

天に向かって銃を撃つ。

すると弾は一瞬だけ重力に反抗する。一瞬、落ちずに、天にのぼる。

その重力に逆らおうとする瞬間を描いたのが『天気の子』という物語なのかもしれない。

 

 

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未熟さへの愛慕。それこそが『天気の子』という物語の特異さである。 

通常、未熟さは乗り越えなくてはならないものとして扱われる。いつまでも未熟であってはならない、成熟しなくてはならない。それはたとえば雨が天から地に落ちるものであるという重力が存在するのと同じように、子どもが大人に成長することは当然の方向性として扱われる。

そのような「重力」が存在しているからこそ、物語はビルドゥングス・ロマンを語り、人は誰かの成長に時に涙してきた。

たとえば、しばしば新海誠監督がその影響を語る村上春樹の代表作『ノルウェイの森』には、以下のような台詞が存在する。

そして俺は今よりもっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。

(『ノルウェイの森講談社文庫、下p183、初出1987)

 私たちは、大人にならなければならない、という圧力あるいは重力の中で過ごしている。

 

本作でも、「早く大人になりたい」とつぶやくヒロイン陽菜の姿が描かれる。こんなふうに未熟な子どもだから自分は弟を守れないのだ、と嘆く陽菜を、主人公の帆高はサポートすることになる。

二人が「ビジネスパートナーになった」と述べる場面があるが、ビジネス――つまり自らの力を換金する作業によって、彼らは自分たちの未熟さを乗り越えようとする。陽菜はポテトチップスを使って料理を作り、帆高は自分たちが生きていくためのサービスのマネジメントに徹する。いかにも子どもが大人のパロディをしようとする場面が描かれる。

陽菜の弟である凪はもっとも分かりやすく、帆高に何度も「マセた小学生だ」と呼ばれる。それは彼ら子どもたちが大人になろうとする、未熟さから脱しようとする姿の象徴だろう。

 

しかしその一方で、相反する引力のように、彼らの周囲にいる「大人」たちは、大人であることを拒否しようとする。いや、大人であるにもかかわらず未熟な自分に戻りたがっている、というほうが正しいだろう。

夏美は、大人になる通過儀礼であるところの就職活動に飽き飽きした顔をする。須賀は娘を引き取ることができないが、妻の残したものを片付けられないままの事務所に住む。須賀が禁煙していたにもかかわらず、またもとへ戻るように喫煙する姿を描き、夏美に叱咤される場面は、大人たちが未熟な自分に戻ろうとする逡巡を描いたと解釈できる。喘息を持つ父として禁じていた煙草を、また吸ってしまうのだ。*2

 

この物語が未熟さを脱しようとする子どもたち――つまりは帆高・陽菜の話だけで終わっていたら通常通りのビルドゥングス・ロマンなのだが、新海監督はそうは描かない。

ある種の未熟さを起点とし、そこから脱しようとする子どもと、そこに帰ろうとする大人。その相反する方向性こそが『天気の子』の物語である。

たとえば重力に逆らって天へのぼる少年少女のように、通常であれば未熟から成熟へ動こうとする物語の重力に、新海監督は逆らう。帆高・陽菜のふたりの反対に、須賀・夏美を配置することによって、純粋なビルドゥングス・ロマンの重力に抗う。

 

しかし映画を見た人は、「いやでもこの話っていわゆる少年少女たちの成長物語、ビルドゥングス・ロマンなんじゃないの?」と言いたくなるかもしれない。帆高は、ビジネスパートナーとして陽菜の力を利用した自らを悔やみ、少女を人身御供にしようとした自分自身の無知を否定する。これは未熟さを断とうとする、いわゆる「大人になろうとする」試みではないのか、と。実際、『天気の子』を少年の成長物語として読むことは可能だろう。

が、それでは物語のラストシーンまで辿り着けない。

 

まず前述したように、陽菜は「大人になりたい」と願うヒロインであるが、大人になることを奪われたヒロインでもある。これ以上成熟すると、社会が狂ってしまう。だから大人になる前に消えなくてはならない。実際は年齢がもっと下だった、というエピソードからも分かるように、陽菜は未熟さを隠して生きるキャラクターとして描かれる。*3

そのような陽菜に対して、帆高は、「社会が狂ってもいいから、君のほうが大切だ、僕と君さえいればこの世界は大丈夫だ」と述べる。それは一見、恋愛物語としての帰結に読める。ある意味これまで「セカイ系」と呼ばれた物語の、ありふれた結末のようにも。

しかしこの後、新海監督は、大人――たとえば事務所を移った須賀、あるいは以前助けた老婦人――から「元々世界は狂っているのだから、きみの未熟さのせいではない」と述べさせる。これが『天気の子』が内包してきた、相反する重力――「大人になりたい」と「子どもにもどりたい」の引っ張り合いの帰着点なのである。

須賀は「自分の責任だなんて自惚れるなよ」と、老婦人は「もともと東京はこういう街だった」と帆高に伝える。そもそも世界は狂っている。君たちが未熟であったその代償として世界が狂ったわけではない。つまり、そもそも大人たちは未熟であり、その結果として社会は狂っているのだから、君たちのせいではない。

だからそもそも、大人になる=社会の一構成員であるために何かを失うくらいなら、大人にならなくてもいい。大人であるところのキャラクターに、そう言わせる。きみは陽菜を失わないままでいていいんだ、と。

 

物語中盤、須賀は帆高に陽菜を手放して島に帰ることを「大人になれよ、少年」と要請するが、結局その論理を通すと、少年・帆高は大人になっていないままである。妻を失った「大人」の須賀と対比して、帆高は陽菜を失うことを選択しない未熟さを抱えたまま「青年」になる。しかし『天気の子』という物語は、そのことを肯定する。未熟であるままの帆高こそを、この作品は肯定し、もっといえば愛しているのである。

 

まだ何も失っていない頃の、未熟だった自分を愛する感情。それは通常ノスタルジーと呼ばれる。大人になる、成熟するために何かを失う前の自分。まだイノセントだった自分への懐かしさ。しかしノスタルジーと呼ばれる感情は、本来ならば、現在の自分と断絶した過去を愛おしく思うものであるはずだ。

が、『天気の子』にとって未熟さは断絶しない。大人が子どもだったころの自分を突き放して懐かしく思うのではなく、本気で未熟さこそがこの世界をすくうのだ、と、肯定する。それはむしろ懐かしさではない、希望をそこへ見出す行為である。

 

だからラストシーンで帆高が陽菜と出会った時、社会=東京は土砂降りの雨であっても、その背景は晴れている。社会の天気を狂わせようとも、彼らは土砂降りの雨のなかで大丈夫とつぶやくことはない。なぜなら、「大人になれ」という重力に反する――天から雨を降らせる力に逆らうこと、つまりは未熟なままでいることこそを、帆高は選んだからだ。

帆高は、陽菜にこんな力を持たせた世界を憎む、とも言わない。ただ「大丈夫だ」と言う。 陽菜が世界を狂わせる力を持ったままだとしても、陽菜が力を持ったままでは大人になれないとしても、自分も同様に大人にならないままでいるから大丈夫だ、と。

『天気の子』という作品は、その未熟さこそを美しく描き、大人になろうとしないことの甘美な痛みを愛する。

 

未熟さは希望である。

雨であるはずの東京で、束の間晴れた美しい空を背景にしたラストシーンは、その宣言だったはずだ。

 

 

***

 

個人的には未熟さを愛するなんて死んでもしたくないしまじファックと思うけれど、でも、『天気の子』という映画体験はその美しさを描いた作品だった。と私は解釈している。映画の中で歌う野田洋次郎が綴ったように、それは、「重力が眠りにつく」日の話なのだから。*4

 

『天気の子』の主人公・帆高は、銃を空に向けて撃つ。重力を振り切るように、弾を上にむかって撃つ。

それが「きもちわるい!」とヒロインに叩かれるほどに未熟な行為であることを、おそらく新海誠監督は誰よりも分かっているのだろう。

でも、その未熟さを本気で愛する(繰り返すが懐かしむのではない、たぶん新海監督は本気で未熟さこそを愛しているのである)、ちょっと狂気じみた感情を描く映画に癒されることもまた、映画というエンターテイメントの効用、なのかもしれない。

 

 

 

*1:と、いう会話をこないだ友人とした。Twitterで『天気の子』について書いたらその次の一週間会う人会う人みんな『天気の子』の話をしていた。すごい。まじですごい。

*2:インタビューで「須賀は帆高に“大人になれよ”とか言うくせに、自分は大人にちゃんとなれていないと思うんです。大学生の夏美は“大人になりたくない”と思っていて、モラトリアムの中にいることを自覚している。」と語る新海誠監督は意識的にこれらの大人と子供の対比を描いていると考えられる。参考URL:https://ddnavi.com/interview/554801/a/

*3:自らの処女性を売る現代のアイドル像を表象しているように考えられる、が、たぶんいろんな人が言ってるので省略~。

*4:『グランドエスケープ (Movie edit) feat.三浦透子』(作詞・作曲:野田洋次郎)歌詞URL:http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l04ce5d.html