京大の吉田寮をモデルにしたドラマ『ワンダーウォール』を見た(あるいは敵のいない物語の作り方)

この世にはどうしたって物語になる人とそうでない人がいて、もっというと、物語になる物語と物語にならない物語がある。

本当だ。

いや、この世はみんながそれぞれ主人公なんだよ、という言葉もある。その主張に異を唱えようとは思わない。実際みんなそれぞれ主人公な時もあれば脇役になる時もある。けど、それでもやっぱり、望もうと望むまいとなぜか物語の主人公になってしまう人はいるんじゃないかなーと思っている。なんだろう、能力とか性格とかの問題じゃないのだ。

もちろん、物語になる/ならないということと幸せの有無に相関は、ない。

 

 

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与太話は置いておいて(いやこっからも与太話のようなものですが)、先日、『ワンダーウォール』というドラマを見た。

京大の吉田寮の話だ。吉田寮のドラマができると聞いたとき「面白そう」と思ったけれど、なんと脚本家が渡辺あやさんっていうじゃないですか!!! 私は『カーネーション』を朝ドラで見て以来渡辺脚本の大ファンなのである……。『天然コケッコー』も『合葬』も『火の魚』もその他諸々も大好き。

ドラマを見てみると、私自身やっぱり渡辺あやさんの脚本が好きなのもあって、面白かった。成海璃子が京大文学部インド古典哲学の研究室にいた」という設定が個人的にハイライトだった。いてほしい。

ドラマのつくりはまるでドキュメンタリーかと思うくらい、吉田寮取り壊し問題をめぐる対立、雰囲気がそのまんま描かれていた。まぁ私は正直吉田寮についてほぼ知識がないので、実際「そのまんま」なのか、リアルなのかどうかは分からない。けれど京大界隈のツイッターで「だいぶ取材したみたいですね」「あんな感じだ」「そのまんまだ」とかいう意見をちらほら見たので、たぶんリアルだったんだろう。

 

けど、見ててつくづく思ったのが、「物語になる」ってなんなんだろうなー、ということだった。

いやぁ、京大、つーか吉田寮、そこにいるだけで物語になるのだよな。ほんとに。

 

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インド古典哲学な成海璃子……。

 

当然の話だが、すぐれた脚本や芸術というのは、なんでもない日常をよき物語として切り取る。切り取り方が作家性として表象される。上手なエッセイストさんがなんでもないことを面白く書けるのはそこに技術があるからだ。

『ワンダーウォール』も、なんでもない寮の風景が、渡辺あやさんの脚本によって良い物語になっていた。いやー寮生の微妙な会話とか、突然挿入されるお茶のシーンとか、脚本じょうず~~~とほれぼれした。

でも、なんていうか、これが「吉田寮」じゃなければ、たとえ「日本最古の寮」という条件があったとしても、ドキュメンタリー風に彼らとその場所をうつすことが物語になるとは限らないんじゃないかな、と思ったのだ。

もちろん今回のドラマは伝統のある寮の取り壊しをめぐる葛藤がそこにあって、それは非常に重大で大切な軋轢があって、そりゃ物語になるのも分かるんだけど。

でもやっぱりさぁ、京都とか京大とか吉田寮とかそこにいる彼ら、やたらめったら、物語に、なるよ!!!! 物語力、強いよ!!!! 今勝手に作った造語、物語力!!!!

 

 

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寮と対立する学生課の受付に「壁」ができた、というのが物語のはじまりだった。

 

これは完全になんとなくの雑感なのだが、今、みんな、物語を欲しがっているような気がする。

自分の人生や日常が、なんらかの物語であってほしい。SNSのせいなのか個人がスポットライトを当てることが多いからなのか分からないけれど、みんな自分に何らかの物語が欲しいのだ。それは昔からそうだろうと言われればそれまでだけど、最近とくにそういう傾向があるように感じる。まぁその「物語力」があったところで京大生や吉田寮が憧れられるわけじゃないけどさ……。

 

じゃあ、物語はどうしたら生まれるのだろう?

――一番分かりやすい物語をつくる方法は、「敵」をつくることだ、と思う。

敵がいれば、その敵に立ち向かうようなストーリーが生まれる。倒そうとする悪がいれば、その敵に向かっていくという物語が生まれる。うん、ドラマチックである。

だけど実際。私たちの周りに「敵」がいることは、案外少ない。

実は、私たちの前には、敵ではなく「壁」があることのほうが多い。

そう、『ワンダーウォール』というタイトルにもあるとおり。

 

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友達と「あんなしゅっとした京大生いない……」と喋った。しかし俳優さんは画面の端々からみずみずしさが滴るような方ばかりだった。すごい。

 

この世には、そうそう、敵なんていない。完璧な悪なんていない。大人になってからは、バイキンマンですら世界には必要であることが知らされる。敵とみなされるやつなんて大抵はスケープゴートである。

だから困る。わかりやすい敵がいたなら、そこに物語なんて簡単に生まれるのに。

反対に、みんな壁には抗い難い。なぜなら壁は私たちを守ってくれたりもするからである。権力は尊い。えらい。しかし壁に守られたままだと、結局私たちは絶望し始める。どこにもいけないからだ。やりたいことがやれない。

そのなかで、誰かが私たちを取り囲む壁に「息苦しいなァ」と気づいて、そこに追突していくようなことが起こった時――それは、私たちの物語になるのだろう。

 

軋轢があって、弱くて、壁なんかまぁ勝ちようがなくて、けどそこにユーモアだったり知恵だったり壁の一部になる権力だったりを使ったりして、なんとかかんとかやってく。うちに、もしかしたら壁が崩れるかもしれない。崩れないかもしれないけど。

ってのが、ひとつの物語になる。

敵は、そこにはいないけど。たしかに倒すべき壁があるから。

 

 

 物語を欲しすぎると、人は勝手に敵をつくり始める。まぁそれが一番わかりやすい物語だから。ヤマトタケルオデュッセイアも敵を倒す話である。敵は敵認定をすると頭の中で敵になる。

けど、実際に一番倒すべきは、特定の個人である敵ではなかったりする。壁を作り出した構図そのもの、社会とか権力とかもっと大きなもの自体を倒すのがほんとうだったりする。

そんなわけで、吉田寮の取り壊し問題を「壁」に寮生が立ち向かうことに葛藤する物語として描いた『ワンダーウォール』は、寮と教授陣の話に見せかけて、個人と権力の話なんだよな……。と、その物語のあざやかさに私は改めてほれぼれするのであった。

 

 

 

人生は物語になんかならなくていい。平和がいちばんいい。きわめて穏当な波に乗ってくのが一番だ。壁のなかで守られてこ! と、基本的に日和見主義な私は思う。

けど一方で、壁がそこにあったら、息苦しさも閉塞感も軋轢も不自由も生まれる。だから、その壁を倒しきるのは無理だとしても、壁にむかって摩擦を叫ぶくらいは、ゆるされるべきだと思う。でも大抵、摩擦は嫌がられる。めんどくせーから。空気を読まないから。

だけどその摩擦をゆるしてくれる場所がもう少し増えるくらい、いろいろ余裕のある寛容な社会になればいいのにな……と、私は思う。

 

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余裕のないとき、人は人の不機嫌をゆるせない。

だからこそ、摩擦をゆるしてくれるところには、物語が生まれるのだと、私は思う。