「読むって、簡単なことじゃないんだよ」

物理の研究者は頑張ったらノーベル物理賞をとれるけれど、文学の研究者は頑張ってもノーベル文学賞をとることはできない。

と、いうのは笑えるんだか笑えないんだかよく分からないジョークである。まぁ、ジョークっつーか真実なのだけど。

 

大学院で文学研究をしてます、なんて言うと、「へえー」と目を見開かれて終わる。文学研究ってほんと何してるかわかんないですよねぇ。と、私は心の中で苦笑してから、次の話題にうつる。それは自虐でもなんでもない。正直、文学を研究するという行為が一体何をしているのか、自分でも明確な輪郭を与えきれてなくてはっきり答えきれないところがあるからだ。胸をはってどや顔するにはちょっと後ろめたい。私は。親に大学院にまで行かせてもらって、国にお金を出してもらって建てられた大学に通って、どういうこっちゃねん、と誰かに怒られそうだけど。

結局、みんなの疑問はここに尽きる。

「文学って、わざわざ研究しなきゃ分からないものなの?」

だって本屋に行けば夏目漱石の小説を309円出せば読める(※『坊ちゃん』新潮文庫)し、私の研究してる萬葉集岩波文庫版を解説付きですぐに読める。*1外国の文学だって、翻訳者は必要だろうが、研究者はなぜ必要なのか。文学研究は何をもって世の役に立っているのか。

大抵、こんな疑問を投げかけると研究者自身が「役に立つとか立たないとか、そんな観点で学問を見るんじゃない!」と逆ギレし始める。ま、分かる。そりゃあ研究者自身、不安だからだ。我々が必要かどうかなんて、実際に絶滅してみなきゃ分からない。当然だ。こわい。誰だって「あなたはこの世界に必要?」なんて純粋な瞳で聞かれたら泣きたくなるのが人情だろう。

だけど、それでも、私たちは文学に惹かれて、なんかここに探さなきゃいけないものがある、って思って、しまうのである。

 

 

散々いろんなところで言ってきたが、私は小説だの物語だの文学だのが大好きである。正直ずっと本を読んで書いてするだけで暮らしていければいいのにな~と今も真剣に願っている。脳内お花畑である。ぱっぱらぱーだ。

本を読むことそれ自体は、大学に入る前から好きだった。けど、大学に入らなかったら、というか京大文学部に入らなかったら、私は「ふつーに本が好き」で終わっていたんじゃないかな。というぼんやりとした予感がある。少なくとも書評本を出すなんて行為には至らなかっただろう。

大学に入ってから、古典が好きだし国文学勉強したいなぁと思って受けた専門の授業は面白かった。レポートを書くのもわりと好きな行為であることに早々に気づいた。勉強の本や論文を読んだり集めたりするのはもっと楽しかった。

だけど、院に行くほど頭はよくないよな、と思った(これについては今も思っている)。就活してふつうに生きよう。がんばってお金を稼ぐのである。そう覚悟していた矢先のことだった。

わすれもしない学部四回生の春である。桜も散り終わったかという頃、とある文学研究者の先生の授業を受けた。

 

「読むって、簡単なことじゃないんだよ」

 

それは初回のガイダンス授業でその先生が言った台詞で、四回生の春から今に至るまで、私が先生から教わっているのはただひとつこのことだけだ。

――読むって、簡単なことじゃないんだよ。

この言葉を思い出すと、私は呪いという言葉を連想する。なんだか物騒であるが。人の人生を決めてしまう縛ってしまう言葉、というのがこの世には存在するけれど、確実にこの言葉は私にとってひとつの呪いだ。愛しき呪いなのか、忌まわしき呪いなのか、それは今の私には分からない。

読むって、簡単なことじゃない。

この言葉が真実であると知ったのは、その授業が始まってからだった。自分が読んでいたものは何だったんだろう、と、心から驚いて悔しくなった。だって自分が読んだことのある小説たちが、くるりくるり、とあまりにも姿を変えて迫るのだ。授業で先生の読みを通して提示された小説は、私がすでに読んでいたその小説と、タイトルと内容が同じだけの、全く違うシロモノだった。

もちろん、先生が読んだ小説のほうが、ずっとずっと美しくて切なくて面白かった。

 

 

「誰が読んだか」によって、書かれたものは全く違うものになる。と、知ったのは大学の授業を通してだった。私たちは同じ文章を読んでいるように見えて、誰が読んだかによってそこから受け取る情報は全く別物になり得る。

たとえば、同じ人を見ていても、「今日はメイク変えたね」とか「あの子元気ないね」とか気づく人がいる。違和感に気づく。そして「どうしたのかな」と思考にうつす。それができる人と、できない人がいる。

文学も同じだ。同じ言葉の羅列を見ていても、「なんだろうこの部分」とか「変だな、この句。なんでこう書かれてあるんだろう」とか気づく人と気づかない人がいる。そこから何かを深く際どく読み取れる人とそうでない人がいる。

その違いを、先生はいつも、「読める人」「読めない人」と、言う。

私はいつも世界で一番読める人になりたくて、けど、その違和感に気づけているのかどうか自分では分からない。大抵、私よりも読める人が論文や批評で「ここって……」と指摘して「うげ、そこ読めてなかった」と気づく。

 

書くことに比べたら読むことは簡単そうに見える。いつも。視界に言葉が入っていたらそれは読めているように感じる。語彙が分かっていたら、文法が分かっていたら、私たちはものを読めるように思う。文章というのは、単に文法に沿って言葉が羅列されているだけのように思う。

だけど実はちがう。きちんと読もうとすると、明確に、誰の文章もでこぼこしている。どこかに調子が乱れるところがあって、整っているところがある。基本的に文章というものは、いつも何かを隠していて、だけど何かに気づかれたがっている。文学は、言葉は、もっともっと色んなひとにきちんと読まれたがっているように見える。言葉自体が、泣く以外に言葉を持たない赤ん坊のように見える。

 

……まぁ、そう見えるのだと言えるようになったのは、京大の先生方のご指導の賜物なのですが。

 

 

「読むこと」にも実は技術がいる。読み方を知っていても、深く読めているとは限らない。たとえばピアノの弾き方を知ってる人が沢山いても、楽譜を深く理解してピアノを上手く弾けるプロは少数であるように。

だからこそ少数ながら「読むプロ」というものはこの世に存在するし、文学研究者というのは、そういう修行をする人種なのだ。

つまりは文学部って、音大みたいなもんなのだろう。

 

どんなに美しい楽譜があっても、美しく演奏する人がいなくては、美しい曲として聴くことはできない。

私はそんな言葉を信じて、今日も大学に向かう。この世には沢山のもっと美しい演奏をされ得る文学が、言葉が、あるはずなのだ。文学たちは、もっとその美しさを、切なさを、面白さを理解されたがってるはずなのだ。たぶん。

楽譜を演奏するだけなら誰にでもできる。簡単そうに見える。でも、簡単じゃない。簡単じゃないのだ、残念ながら。もうちょっと研究が必要なのだ。

 

 

もしも簡単だったら、いつだって私は京都を出ていけるのに、ね。

 

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*1:ちなみに京大の先生が編集陣にいるからみんな買ってね。

 

万葉集(一) (岩波文庫)

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