場所の記憶はいつもなぜか重層的(あるいは女の子デートの思い出)

時間というものは線上に流れているものではなく、浮かんでいるものである。

と、最初に言っていたのは、だれだっただろう。

たしか恩田陸のエッセイか小説だったと思う。が、どこで読んだのか忘れてしまった。こないだ読んだ萩尾望都特集冊子に恩田陸が寄せたエッセイで同じようなことを述べていたので、たぶん恩田陸がどこかで書いた断片を私が記憶したのだろう。

時間は浮かんでいる。そしてもっというとーー重なる、ものである。

と、私は勝手に思い込んでいる。

SFとか物理とか哲学とか色んな本をもっと読めばちゃんと説明できるのかもしれない。キリスト世界的感覚とヘブライ世界感覚というのがこの世にはあって、現在メジャーじゃないが後者の感覚に日本人は近い……という話も昔読んだ。*1けど、私は「時間」そのものがどう動いているかにはあんまり興味がない。個人的には、時間じゃなくて、記憶とか思い出とか、要は「自分の中の過去」や「自分の中の時間」がどうなってるのか、のほうに興味がある。

自分が過去に経験したこと、抱いた感情、それから記憶している思い出。それが私たちの中で、どういうふうに保存されてどういうふうに消されて、なにによってもういちど思い出されるのだろう。

思い出はぷかぷか浮かんでいるが、時に消えて弾けて、またよみがえる。

 

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気がつけばもうすぐ祇園祭の季節である。はやすぎ。

先日、東京にいる友達がふらっと遊びにやってきた。

大学時代をたっぷり京都で過ごした彼女とごはんを食べるべく、祇園四条に集合……と思いきや、ごはんもそこそこに、彼女は急に「八坂神社に行こうよ」と言ってきた。

なぜこの期に及んで八坂神社。いまさら京都観光って身分でもないだろーにきみ。

私が笑うと、彼女は「いや実は今日の京都巡りのテーマは」と言った。

「いろいろ忘れたい思い出を、香帆ちゃんで上書きする、ってのが目的ですから!!」

 

要は、彼女が京都で過ごした思い出の場所を巡り、彼女が「あああなつかしい」というのを私はひたすら横で聞く、というのがその日のコンセプトらしかった。

なぜその立ち位置に私、つーか完全にわたし失恋した後の当て馬不憫ポジション!

と笑いながら、いいよいこうよ、と、二人で30度を超える蒸し暑い京都をてろてろ歩いた。

 

「このバーで、すっごい好きだったけど付き合わなかった人と飲んだんだよね」

「えーいいねぇわくわくするやん、どんな会話したの」

「なんか、どこからが浮気のラインか~とかそういう話」

「どこからが浮気なんですかおねーさん」

「私は何て答えたか忘れたけど、その時、彼が『彼女だったら他の男と喋ってるだけでちょっといらっとする』って言ってて、めっちゃかわいいと思った」

「あーかわいい、でもそれ男の人だから許される発言って感じ~なんでだろうね」

「女の人だとメンヘラっぽくなるねたしかに」

  

 

八坂神社で彼女が元彼と撮った写真と同じ構図で私たちの写真を撮る、とか、元彼とよくデートした道を私たちで歩く、とか、そういうことをしていきながら彼女の話を聞く。

 

そのうちに、暑さのせいだろうか、私はどんどん不思議な感覚に覆われていった。

 

たとえば八坂神社を見て、私はむかし八坂神社に来た時のことを思い出す。ああ屋台あったけど案外割高でスルーしたなぁ、とか、神社でおみくじ引いたけどそのあと結局結んだっけどうだっけ、と。

だけど横では彼女が自分の思い出をぱらぱら話してゆく。ここでおみくじ引いてさぁ、そんで写真撮ってさぁ。

すると、自分の思い出と、他人の思い出が、へんに重なって溶けてく感じがする。

あ、暑さのせいだろうか。

 

街を歩いて、「ここでご飯食べてさ」「この時めっちゃ楽しくて」「ここで泣いて」とかいう発言を聞くたび、他人の思い出が自分の思い出と重なってゆく。

だって彼女にとっての思い出の場所は、私にとっての思い出の場所なのだ。同じ京都で同じ大学生活を過ごしたのだから、そりゃ同じ道を何度も歩いているはずである。京都の大学生が大概デートしたり友人と飲んだり誰かと歩く道なんて、ほぼ変わらない。「あー私も行ったこのお店」「ここたしかに男の子と行くにはいいよね」とか相槌をうつようになる。

変な感じ。

 

 

「場所」にまつわる記憶は、当たり前だけど人によってちがう。だけど、その記憶を思い出す「場所」は、当たり前だけど同じ場だ。

すると、私の思い出まで彼女の思い出に重なってくるように見える。

 

思い出は重なる。そんで、今日のことも、たぶん思い出に変わる。

 

混乱してきた。

 

 

 

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三条大橋は日除けがなくて暑い。人が多くてさらに暑い。

 

東京という町は、場所によってさまざまな時代が見られ、それらがつぎはぎのようなモザイク状になっている町だ。しかし、京都は同じくさまざまな時代が見られるのだが、それはミルフィーユのごとく底の方から重層的に積み重なっているのだ。(『小説以外』新潮文庫p48)

恩田陸がエッセイで、京都のことをこう述べていた。私はこの文章を京都に来る前に読んでおり、この捉え方に完全に洗脳されているのだが、やっぱりそうだよな、と思う。

個人単位でも場所の思い出って重なるのに、京都って街はたしかに時代単位で重なり合わせている。

私自身も、彼女も、京都の重なってゆく地層のいちぶだ。

 

 

カフェとか、居酒屋とか、神社とか、小道とか、川辺とか。

場所から浮かんでくる思い出がある。

場所から浮かんでくる思い出は、ものすごく断片的で不連続でそしてどんどん重なってゆく。

 

彼と行ったカフェ、は、彼女と行ったカフェ、になって記憶が曖昧になって重なる。

 

 

 

今日も私は京都で過ごす。たぶんいつか思い出になる。

 

街は忘れていた思い出を連れてくる。「あ、ここ、前に来たな」と思って、だけどその思ったこともまたいつか思い出になって、そうして、街や場所の記憶は重なってゆく。

 

先日彼女と歩いた京都の街を、今日、こうやってブログに残して思い出す。

 

でもそれって本当に私が歩いた街の記憶なんだろうか。

誰かに言われて自分の記憶だと思い込んだり、小説で読んだものを自分の記憶だと勘違いしたり、他人との記憶が溶けて重なってできたなにかじゃないのだろうか。

むわっとしたこの京都の気候によって生まれたなにかなのではないのか??

 

 

「このカフェ、今までの人生でいちばん好きだった人と来て、彼を好きなった場所なんだぁ」

 

あれ、これ彼女の発言だっけ、私の発言だっけ。

私の思い出? それとも彼女の思い出? 

それとも全然ちがう誰かの思い出?

 

ほんとに?

 

記憶は重なって、いつも混乱している。

 

 

萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母(文藝別冊)

萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母(文藝別冊)

 

 恩田陸のエッセイ、確認したら「時間も空間も連続してない」だった。

 

日本文化における時間と空間

日本文化における時間と空間

 

 とっても読みやすいので日本人の感覚みたいな話を読みたい人はぜひ。

 

小説以外(新潮文庫)

小説以外(新潮文庫)

 

 影響を受けすぎてつらい。

 

 

*1:『日本文化における時間と空間』『時間の比較社会学』、面白いのでおすすめ。