東京物語

小津安二郎オマージュじゃありません(期待した人はごめん)。

『ワンダーウォール』の渡辺あやさんのエッセイが素晴らしすぎて思いのたけを綴ったら長文になってしまった

ある日、三条で人と会った帰り道、丸善にお目当ての本を買いに寄ったら、まったくお目当てではなかったはずの『ワンダーウォール』のシナリオ写真集を買ってしまった。

 

 

seikosha.stores.jp

 

とくに買う気はなかったのになぜ買ってしまったかって、私が崇める渡辺あやさんのシナリオ全文が載ってたのと(いいもん渡辺あや研究するもん、ってそれ趣味ですが)、書き下ろしていたエッセイ「命と壁と場所」が異常なまでに良かったからです……。

 

 

ワンダーウォールについてはこちら。

www.cinra.net

 

 

そんなわけで渡辺あやさんのエッセイは、ちょっと2018年読んだなかで一番の名文だったのですが。

 

何が名文って、私が今悩んでいること、葛藤していること、そのまんま文章になっていたからなんだと思う。

 

 

なかなか読める人が多くないと思うので、内容について少しだけネタバレすると、エッセイは、彼女の住む田舎の町で「いったいなんでこんなに人が自殺するのだろう?」という疑問を持ったこと、そして「不経済である」という理由で淘汰され死に絶えてゆく様々な場所のこと、だけどなかなか個人は勝てないこと、そしてその想いをいかにこのドラマに託したか、ということについて綴られている。

そしてこのエッセイに、ドラマのモデルになった寮の名は出ない。このドラマもまた「壁に囲まれている」のだと渡辺さんは最後に述べる。

私は吉田寮(べつに個人が言っても大丈夫だよね!?)に対してそんなに思い入れはなく、潰そうという機運が高まっていると聞いた時も「えっなぜ」と怪訝な顔をしたくらいで終わった。住んでいたこともないし、何人か住んでいる友人がいるけれど、京大生の変人イメージに一役買っている場所、という印象くらいしかない。

だけど、渡辺さんがおっしゃることは、とても、とてもよく分かる。

 

寮じゃなくて、「文化」と「経済」について私はここ一年くらいすごく考えるようになった。

自分が身を置く大学をめぐる環境、自分が好きな文学研究や小説や文学をめぐる環境、そしてなによりも「自分の中での文化と経済」の折り合いが、いまだに、ずっと、ずっと着かないのだ。

 

自分が関わる文学研究や小説や文学といった類のものは、「不経済」に分類される。よく分かる。食べていけない。お金を稼げない(はは、シャレになりませんね)。どう考えても文学研究、お金を生み出す類のものじゃない。文科省から予算を削られるの分かりまくる。

それでも「価値」はある、と私は心底思っている。だって過去の文化が残っていない文化は、過去がなかったものと同じだ。民族や共同体として積み重ねられてきた知識や感情や思想、そのうえに私たちは生きている。歴史があって、時間の洗礼を受けてきたこと、そして残してきたこと、それ自体がその共同体のアイデンティティになる。それを誰かが残そうとして理解しようとしないと、使うことも保存することも叶わない。

でももう国にお金がない中で、文化を守ってられるほどの高潔さなんて残ってないのは、分かる。アイデンティティよりも明日食べてくことが大切なのだ。吉田寮の問題だって同じなのだろう。寮の維持費を出せるほどのお金が大学にない、あるいはそれに抵抗できるほどの元気が大学側にない。

それでも、文化はいったん消えたら終わりなのに……と思う自分もたしかにいて、そのせめぎ合いは、自分の中での私的なせめぎ合いでもある。

 

要は、

資本主義に、勝てねえー!!!!

ということである。文化を維持するのは、ただでは、ないのだ。

 

いや、文化の維持に場所なんて必要ない、文化の恩恵を受けた人々が記憶し、その存在そのものが文化の証だ(たとえば吉田寮の建物がなくなっても、吉田寮の思想や精神は残るだろう、ということ)と言う人もいるだろう。たしかにわざわざ過去を確認しなくても、私たちの地層には過去が埋まり、言葉には過去が潜む。だけど本当にそうなのだろうか? 忘れられたら、消えてしまうのではないのか? その文化の証としての場所や作品が残らなくては、その記憶や、そして文化は、いずれ消えてしまうのではないだろうか? 

きっと、多くの少数言語や少数民族の芸術がそうだったように、弱肉強食で忘れ去られるものなのだろうけれど。忘れることは、掘り起こさないことは、それでいいのだろうか。

 

渡辺さんも、町の小学校が廃校になったことについての葛藤を綴る。

まあしょうがない、自然淘汰なのかもしれない、母校でもないしな、などとあらゆる方便で気持ちをおさめようとし続けている。だけど数年経って、やっぱりそれがいかに残酷な、致命的な出来事だったのかを確かめさせられるようにその後の日々を暮らしているというのが、どうまぎらわせたところでやっぱり正直な実感なのだった。

 

朽ちてゆくもの。なくされてゆくもの。一度なくしたらもう取り返しがつかないもの。

それが私には分からず、やっぱり何も取り返しなんかつかないし、なくしたらそれっきりだろうし、だけど現状は進んでゆくし、時間はどんどん前に進むし、変化をおそれてちゃ何もできないし、結局どうにもこうにも結論が出ないのだ。

 

 

誰が悪いというよりも、優先順位が何によって決められるのか、誰にとっての大切なものが残るのか、という問題なんだと思う。そして結局この世は大切なもののために戦うしかなくて、大抵の場合負けて終わるだけの場所なんだな……と暗澹たる気になる。負けたくないなら勝ち馬に乗じたり、コウモリになって勝ち側の方法を盗んだり、まぁ、そういうことをするしかないように私には見える。そしてそれは非常に面倒で不誠実かつ孤独な行為であり、多くの場合に積極的にやりたい美しい方法ではなかったりして、切ない。もうほんと本屋がアレな本で保ってる話とか、みんなそんなに責めないであげてよ! この世はきれいごとじゃないんだぞ! と私は心底思ってしまうよ。

というわけで、自分の中で今最も折り合いがつかないところを、すごく的確に(もちろん問題の規模は違うけれど)文章にしてくれていて、泣けてしまったのでした。最後の、ある種の励ましのような、言葉も。

 

 

渡辺あやさんは、『ワンダーウォール』について、こう述べる。

大切な場所と、それを奪おうとするものの正体、そして守ろうとする人々の気持ちのことを書きたいと思った。

 

とてもうつくしい物語だったと思う。うつくしくて、切なくて、結局答えはどこにもなくて、自分でなんとか探してゆくしかない、のだった。