世の中には「インプット」型と「攻略」型がおりまして(という名の受験勉強攻略法)
友人が「今年も死んだ目をした新入生が入って来たよ~」とにこにこして言っていた。死んだ目をした新入生。「まぁ四月の最初だけは死んだ目してるよ」と友人は笑う。
そりゃそうだ。友人は某予備校で塾講師をしていて、浪人生を主に教えている。
もうそんな時期か~受験生ははじまりの季節か~と、むかし塾講師をしていた大学院生は彼らのことをぼんやり思う。
受験勉強、めんどいよな。
じゅけんべんきょうという久しく離れた言葉を思い返すと、「自分の強みを理解しよう」という謎の教訓が垂れ流されていたことを思い出す。今気づいたけど就活でも同じこと言われてそうだな。受験勉強するなら、きちんと戦略を立てましょう。そのために自分の強みを知って伸ばしましょう。自分の弱みを知って鍛えましょう。そう教えられる。と思う。少なくとも私はそう教えられた。子育てとかも一緒かなあ? やったことないから知らんけど。
子育てはしてないものの、私はアルバイトで個別の塾講(一対一で教える塾の先生)をしていた経験がある。その時、気がついた。何かを教えたり習得させようと思えば、その子の「強み」を理解するよりももっと、その子の「楽しさ」を理解したほうがずっと早い、ということに。
そもそも、強みなんて人と比べればぽろんと崩れ落ちるものである。「強みなんかないもん何もできないもん……」みたいなモードに入ってしまえばすぐに弱る。何より中高生くらいだと「個人の機嫌やモチベーションの有無」みたいなびみょ~なとこにすぐ左右されてしまう。得意教科はあくまで相対的なものでしかないというか、まぁぶっちゃけ強みって当てにならなくないか!? と塾講師をしていた時まじで思った(っていうより自分が死ぬほど得意教科と苦手教科がはっきりしていた人間だったので、得意や苦手がはっきりしている子は塾講師なんかに教えられなくても、と思ってた)。
というわけで、「強み」よりも大事なもの。それは「楽しさ」のポイントである。「楽しさ」をどこに見出すか、ということ。
楽しさ。それは国語が好きとか数学が嫌いとかそういうことじゃなくて、もっと抽象的な話だ。
受験勉強という同じタスクをこなしていても、「インプット」が楽しいか、「攻略」が楽しいか。これって人によって、びっくりするくらい違う。
たとえばインプット型の子は、授業時間中の雑談が好きである。雑談っつってもあれね、たとえば「数学キライかもしれないけど、元々数学って哲学からできた科目なんだよ~~」とか「芥川龍之介は頭よさげに見えるけど、案外師匠の漱石が言ったことをまんまパクッてるんだよ~~」とかそういう話。ちょっと小ネタになりそうな雑談をすると、ぱっと目を輝かせて笑う。
たとえば攻略型の子を教える時は、ゲーム形式にするとか褒める回数を増やすとかそういうことをやると、すぐにテンションが上がる。ちょっと競争心盛り立てるとか煽るとかそういうことを織り交ぜたほうが、集中する。
だけど雑談を攻略型の子に話すと、「知らんがな、それよりはよ授業終わらせてくれ」って顔になる。如実。大人から見るとそういう子って「知的好奇心がない!」なんて言われることが多いけどそんなことはない。休憩時間にやりたいこともあるだろうし、効率悪いことが嫌いなだけだ。そもそも関係ない話、聞く理由が見つからないもんね。
反対に、ゲーム形式をインプット型の子にしても「なんでこんな茶番やってんだ……」みたいな白けた顔をし始める。「ええ、勝負……やだ……」と萎えた表情になる。子どもがみんなゲーム好きだなんて思うなよ、って気になるよね。わかる。
ほとんどの子はインプットも攻略も「程度によって」楽しいと感じるものだけど、その程度がどっちのほうが上かっていうのは、人によってだいぶ違う。
難しいのが、両者の断絶。自分にとっての快楽が相手にとっての快楽ではない、ということを結構みんな知らないことである。攻略型は「えっそれは負けるのが嫌なだけでしょ? 勝てばゲーム楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるし、インプット型は「えっそれは興味持ってないだけでしょ? 興味のある分野だったら楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるものである。
ああ、断絶。楽しいことは人によってちがうんだよばかやろう!
しかし実際知識を得て嬉しいという体験も勝って嬉しいという体験もコストを払うもので、そこに行きつくまでの体力や気力やモチベーションがある前提だ。どちらに対して「そんなコストを払ってまでやりたくねぇ」と思うか「コストなんて思わないよやりたいよっ」と思うか、その差でしかない。もっかい言うけど、楽しいことは人によってちがうんだよ……。
ちなみに東大には攻略型、京大はインプット型が多いなーという印象。*1
あとビジネス系はやたら攻略型の煽りが多い。みんな任天堂かバンダイの回し者なのかな。
さっきも言ったけれど、大抵の人間は結局オール・オア・ナッシングじゃなくて、程度の問題*2なので、自分がだいたいどの程度の比率かな~と考えてみるのは、受験生じゃなくても楽しい。暇なときにおすすめ。身の回りの他人の比率考えるのはもっと楽しいし更におすすめです。
というわけで受験生が読んでくれてるかどうか分からんけど、塾の先生風にまとめると、受験勉強するうえで大事なのは、自分がどっち派か見極めることだよ! そしてインプット型は息抜きに勉強に関係ある本を読むとか、攻略型は時間はかったり友達と競ったりしてちょっとゲーム要素入れるとか、そういうの取り入れてなんとかのろのろやりきることだよ、というお話です。はい。がんばってね。飽きてきたら自分の中でゲーム要素(攻略型)と雑学遊び要素(インプット型)を入れ替えてみてね。
あと、一番大事なのはむやみに「ああ自分はどっちも楽しめないから受験勉強無理だ……」とか「ゆーて受験勉強ってインプット楽しめなきゃじゃん……」とか勝手に落ち込まないことです。先生困るからね! がんばって明るく楽しく一年間生き抜こ!! がんばって!! 応援してるよ!!
こっからは完全に余談なのですが、この「人は何に楽しさを覚えるのか?」表のマッピングというのは楽しいので暇な時におすすめです。好かれるのが楽しいor好きになるのが楽しい、とかね。*3
眼の前にいる人がどういう作業が本質的に好きな人かを考えるのも、それを分類してくのも楽しいので、いつかなんか表ができたらここで出そう。みなさんもおすすめの快楽分類対立軸があれば教えてくださーい。
この春、文学部に入学したみなさん、おめでとう!
文学部に入学したみなさん、おめでとう!
就職がない*1だの社会不適合者が行くとこだのそこ出てなにすんのだの言われつつも文学部に入ってくれたあなたを、私は心から歓迎します! だって仲間が増えたんだもの! いい仲間かわるい仲間かは知らんけど! うれしい!
しかし文学部ってなんでこうも「文学部イズム」的な何かがあるんでしょうね。同胞意識、めちゃくちゃ強い。なんでだろうね。
私もたまに、文学部とは何だったのだろう? と、考える時があります。
京大の文学部図書館という場所は、文学部の校舎(文学部新館*2という)の地下にある。つまり文学部図書館に向かうには、必ずそこに至る階段を下る必要がある。
文学部新館の二階や三階で、階段の踊り場から地下の図書室のほうを見下ろそうとすると気づく。そこにネット網が張ってあることを。
ある時、先輩から「あれ、自殺予防の網らしいよ」と聞いたことがある。
分からなくもない。階段の踊り場からぼんやり図書室のほうを見下ろしていると、すぅっと吸い込まれそうに落ちてゆきたくなるの、ちょっと分かる。
そんな与太話はおいといて、文学部の先生*3のブログに、こういう記事がある。
文学部イズムというものがあるとすればーーなんかこんな恥ずかしい言い方すると文学部の方々に白い目で見られそうだけれどーー「絶望」がちゃんとここにあるという希望、のことだと思う。
そもそも、人生とか人類とか世界というのはどうしようもないものである。
まじどうしようもない。キリスト様が原罪を説いたのはさもありなんという話で、人生の年月を経れば経るほど、人間は思ってたよりよろしくない存在だなぁということに気づく。もちろん自分も。人間も私もバカだしアホだし、大人になってもたいして成熟しない、あるいは成熟しようとしない。自分にデメリットがあればそこには目をつぶる。
でも、そういうもんだよな、とも思う。うっすらと私は諦める。人間も私もどうしようもないもんなんだ。しゃーない。
しかしなぜか社会は諦めない。成長を遂げ、だれかに勝ち、恋をして、子供をつくり、人とわかり合うことで、あなたの人生はすばらしいものになる、と社会は言う。たとえ幻想だとしても、諦めないようにしようぜ。そう語る言説に社会は満ちている。
躁状態にしてもひどいよなァと私は思う。ほんまかいなという希望ばかりが電車広告に踊る。まぁ気持ちはわかる、結局そういう希望でテンションを上げてないと社会で頑張ることなんてやってらんねぇんだよな。ドーピングのようなもの。
でも、そのドーピングに疲れる時はやってくる。希望ばかりを追うのはしんどい。
そんな時、文学部はあなたのもとへやって来る。
文学部は、たとえばヘミングウェイの『移動祝祭日』みたいに、あなたのところへやって来るのである。
文学部の先生方は言う。文学や歴史や哲学やどれを見てもわかるように、世界は絶望や虚無に満ちてるよね、もう僕はそろそろ歳もとったしいいんだよ、でもあなたたちは若いし希望もあるんだから生きなさいね、と。
そして先生方は、そう言いながら私達を踏んづけて行く。知識と論理力と背中とその他圧倒的なものによって軽々と私達を踏みつける。くやしい。なんでやねん。もう死ぬ歳だなんてさっきまで言ってたくせに。
私達は、そんな先生方を乗り越えるために、いつか先生方を踏んづけるために、図書室の埃臭い匂いを嗅ぎ、本をめくる。なんでこんな私はアホなのかなぁ、ちくしょうこんなん読めねぇよ、と半泣きになりながら。
文学部という場所のことを思うとき、私はその時嗅いだ本の埃臭い匂いのことを、思う。
希望なんていうきらきらした言葉はどこにもなかったけれど、むしろ希望なんかこの世界にはないよって言われ続けたような気もするけれど、でも、文学部にはたしかに絶望と失望に満ちた中の希望があった。
それは文学部の古いほうの校舎に眠る幾多の論文雑誌のことで、地下の図書室に至る踊り場に掛けられた自殺予防の網のことで、そこで出会って鴨川デルタで缶ビールを飲んだ友達のことで、三限の講義室でうつらうつらと頭を揺らしながら聞いた先生の声のことだ。
私は明日世界が終わるって言われても「よしきた!」と思うだけだろうけど、明日食べたい期間限定のハーゲンダッツを買うことと、明日のゼミで読む論文を予習しておくことを怠らない。
あーもう明日人生終わってくれよと嘆きながら、明日借りる本の予約をしている。
まぁ、そういうことなんだよな。
人間も世界もどうしようもないけど、万葉集の歌は、カズオ・イシグロの小説は、九鬼周造の理論は、ラファエロ前派の絵画は、それでも善きものなんだよ。残念だね。
くすくすと笑いながらそれらの悦びに浸った、そういう文学部的空間のことを、私はたぶん一生忘れない。
そんで文学部がいらないとかなんとか外野からは言われるけれど、文学部はいつだって埃にまみれてそこにある。疲れた時に移動祝祭日みたいにあなたのもとにやって来る。だから誰になんと言われようと、あなたとわたしの文学部は、何ものにも壊されたりはしないのだ。
そんなわけで、いろいろあるけど文学部たのしいよ。
文学部への入学、おめでとう!
どうか、あなたが素敵な出会いと幸福な日々を、ここで見つけられますように。
*1:これは私の所感なのだけど、文学部に来ると就職できないのではなく、文学部に来ると就職を素直にいいものと考えられないスピリッツに染まってしまうため就職へのやる気が若干なくなる、の方が正しいと思う。でも私の知ってる文学部の方々はみんな立派に就職なさっていったので、そんなに世間は言わなくても……って思っちゃうな~どうでしょうね。
*2:耐震工事のために新館を建てたのに、旧館はいまだに雑誌所蔵の図書室として使われているという文学部の闇。文学部の雑誌室に行くやつは地震で野垂れ死んでもよいという暗黙のメッセージにしか思えない。
*3:講義がほんっとうに面白かった、思い出の先生。もう退官なされたけれど、「テストの九十分間、どこに行っても誰に何を聞いても何を見ても構わないから回答を完成させよ」という試験、面白かったなぁ。まったく歯が立たなかったけども(今ならもうすこしマシな回答が書けるかな、無理かな……)。ちなみにこのテストには二問目があって、「この授業への自己評価を百点満点で点数をつけなさい、それをあなたの成績にします」という問題だったのだ
鴨川を語る詩人になれなくて
桜の季節である。完全に今年は早かった。いつもなら入学式の段階で「わ~京都の桜きれい~♡満開だ~♡」なんて言う初々しい新入生に「ところでうちのサークルのお花見がこの週末にあるんだけど来ない?」と下手なナンパかよとつっこみたいサークルの新歓が行われるところであるのに*1、今年は卒業式の段階で咲ききってしまった。どうすんだろう彼ら。がんばれ。
そんなわけで桜といえば鴨川である。京都では鴨川といえばトンビ*2、そして桜といえば鴨川なのである。循環論法みたいだな。
鴨川といえばその昔、鴨長明せんせーも眺めながら「ちょう無常!」と言ったとか言ってないとか*3、柿本人麻呂も「鴨川で会いたい♡」と言ったとか言ってないとか*4、鴨川を前にするとみんな何かしら言いたくなる。そう、鴨川を前にすると、みんなしてポエマーになるのである。
ポエマーになる。
びびる。
これは個人的統計に基づく情報なのだが、京大生は異様なまでに鴨川での告白が好きだ。なぜってくらいみんな鴨川で告白する。私の京大女子会ライフの中で「告られた~」「おお、ついに」「いやー鴨川行ったらなんかそういう雰囲気になって」「あ、ああ~~KAMOGAWA……」みたいな会話を何度したことか。おそろしい。何があるんだ鴨川。『月刊マーガレット』に頻繁に登場する渡り廊下よろしく、京大の女子会に頻繁に登場する鴨川。
何なんだ鴨川。きみは何を隠しているんだ。きみは何を京大男子に飲み込ませているんだ。
私は覚えている。ゼミの最中、「二十歳になるのが嫌だった」というトピックを扱った時(文学研究のゼミってこんな話を授業中にするんですよ……)、ある男の子が「二十歳になるのが嫌すぎて、深夜の鴨川のほとりを猛ダッシュして泣いた」というエピソードを披露したことを。
ちなみにこないだは卒業式だったのだけど、東京へ引っ越す友達の数人が「タクシーで鴨川を渡るとき泣いた」「最後に鴨川を自転車で漕いだ時泣いた」「最後の桜を鴨川で見て泣いた」という発言を残して去っていった。彼らが最後に残したダイイングメッセージにやたらめったら「泣ける場所」として登場する鴨川。
そしてむかしNHKで「ドキュメント72時間」という番組があり、「鴨川をひたすら72時間うつすだけ」という狂気の沙汰かよという回があったのだが、東京でその番組を見た私の友達はみんな言っていた。「泣いた」と。
鴨川、どいつもこいつも泣かせすぎ問題。
鴨川なんて、ただの川だ。
だけどなんでみんなそんなに揃いも揃って鴨川が好きかといえば、「お金のかからない遊び場所」だから好きなだけなのだ。鴨川の思い出を聞かれても、きっとその告白の記憶とかみんなでデルタで飲んだ記憶とか花火した記憶とかお花見で誰かが川に飛び込んだとかお花見じゃないのに誰かが飛び込んだとか、結局友達とだらだらしたり喋ったり飲んだり、そういう記憶しか思い出せない。
そう、鴨川はただの川だけど、重要なのはそこで過ごす時間がタダであり、大抵鴨川に行くなんていう時は暇なときであること。
「時間を気にせずいられる、お金のかからない遊び場所」がどんなに貴重だったのかを、私たちは意外と、知らない。
京都を卒業してゆけば、「お金をかけずにだらだらと過ごせる場所」は存外に減ってゆく。宅飲みだって結婚したり会社の寮に住んだりすればできなくなる、居酒屋もカフェもキャンプ場も、思っていたより有料だ。
その時私たちははじめて知る。「外でだらだらする」ことが、思いのほかむずかしいことを。
そして思い至る。「外でだらだらする」ことのできる友人という存在が、思いのほか貴重であることを。
夏は蚊がいて、春と秋はちょっと肌寒くて、冬はかなり寒くて、年中無休でトイレがコンビニにしかなくても、それでも「なんとなく朝まで一緒にいちゃう」相手は、案外いない。
無駄な時間の共有。退屈で「もう帰ろうかな……でももはや帰るのもめんどいな……」くらいに思う友人との会話。明日になればほとんど覚えていない内容。それは今私たちが思っているより、けっこう、手にすることが難しいものである気がする。効率的じゃないし、ね。*5*6*7
ある時ジョイスの『ダブリナーズ』を読んでいたゼミで、教授は授業の最後に、ふと思い出したように言った。「きみたち、鴨川で朝まで飲んで、朝日を見るとかするでしょう」
そして、教授はにこっと微笑んだ。
「それね、今だけだよ」
今だけなのだろうか。私たちは、鴨川で朝まで飲まなくなった時、鴨川を語ることができるのだろうか。
鴨川は遠くにありて思うもの。ってわけじゃないけど(実際、鴨川で泣いてる現役京大生はたくさんいるらしい)、でも、まぁ、今のところ私は鴨川を見てもべつに泣かない。京都にいる身としては、鴨川は基本的に楽しい遊び場である。鴨川を語る資格のあるやつは、鴨川を卒業できたやつだけだ。
京都を離れないと、まだ、鴨川を語る詩人になんて、なれない。
*1:ちなみに京大のサークル男子たちが新歓時期に最も楽しみにしているのは京都女子大に新歓しに行くとこであり、京大生がハツラツとしているところを見ることが出来るのは一年でその日だけと言っても過言ではない。しかし京都女子大の構内には入れてもらえず警備員さんに虫ケラを見るような目をされるとかされないとか。
*2:鴨川でひとりでパン食べてたらまじでとんびに食べられるから注意してくださいほんと。ちなみに私もとんびに持っていたパンを今出川通りでかっさらわれたことがある。やつらはプロ。
*3:言ってませんごめんなさい。
*4:言ってませんごめんなさい。でも「鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」(万葉集巻11・2431・人麻呂歌集)って歌はあるよ
*5:そういう意味でシェアハウスとか大学時代の友人関係に近そうで、だから流行ってんのかなとも思う
*6:二、三枚目は友人が撮った写真です。すっごい上手で惚れ惚れするわ。M枝、使わせてくれてありがとう!
*7:はいこの記事で一番言いたいことですが、このタイトルに反応したあなた、SKEオタクですね!?「恋を語る詩人になれなくて」、聞いたことない人は聞いてね! いい曲だよ!
「どうして今までそれで生きてこれたのか」となんども思った京大での六年間について
六年前、いたいけな田舎娘(私)が京大に入って驚いたのは「どうして今までそれで生きてこれたんだ……」という人間の多さであった。
どうして今までそれで生きてこれたのか。
京大というのは日本で一番自信家の多い大学である(という話を昔書いたことがある)。*1
ちなみにこれはライフハックなのだけど、職場や知り合いで元・京大生を見たら「ハッこいつ自信家だ!」と思ったほうがいい。基本的に謙虚なふりをしてても自信なさげに振舞ってても、そいつは心の奥底では自分が世界で一番エライと思っている人間である。本当に!
しかし話を戻すと、自信家という生き物は、基本的に出る杭は打たれるこの国で、「自信なさそうに振舞う」という処世術を習得する。それが普通である。
とくに中高なんて、みんな一緒の制服を着て同じ試験を受けて同じよーな場所に帰るわけで、いくら能力があったとて「俺/私、自信ありまーす!」なんて叫んでたら殺されるだろう……と十八歳までの私は思い込んでいた。つーか能力あっても謙虚でいなきゃ殺されるもんだろ、普通。羽生結弦くんを見てみろ。
ところがどっこい。私が京大に来て出会った友達は、「ひょえー」と驚くくらいに自信を隠さなかった。
たとえばこれは物理の研究者志望の友人の話。
「京大は五パーセントの天才を育てる場所で、あとの九十五パーセントは遊んで終わるんだよ」と彼が教えてくれたことがある。まぁそうかもねぇ、と私は頷いた。すると彼はこう付け加えた。
「まぁ、俺はその五パーセントに入るんだけど」
……ひょえー。
またこれは二階堂ふみ似の美人な友人の話。
仲良くなりたての時、「○○ちゃんほんとに可愛いよねぇ」と私が褒めたことがある。すると彼女は笑ってこう言った。
「私が美人なのは私が一番知ってるから言わなくてもいいよ~」
……ひょえー。
いやきみたちの能力値が高いのはよく分かるけど、これまでの人生でそう返事して、白い目で見られたことはなかったのか!? きみたちは村八分にされた経験がなかったのかっ!? みんなゴーイング・マイ・ペース過ぎではないのか。
どうして今までそれで生きてこれたんだ。と、私はいつもつっこみを入れていた。
実際は、村八分にされていても気にしなかったり、そもそも村に入っていなかったり、村八分にされても性格を変える術を知らなかったり、彼ら彼女らも「これじゃあ生きていけない」と思ったり思わなかったりする。スペックが高い人は高いなりに大変なのだ。……というのは、大学で彼ら彼女らと仲良くなるうちに分かったことだけど。
そしてこれは、語学の才能があり余っている友人の話。
学部に入りたての時、第二外国語の授業選択について話してる際、彼女は「私、フランス語の○○コースの授業うけよっかな」と言った。その○○コースは上級者向け、とシラバスに載っていたので、私は「わーそれ難しいんだよね、すごいねぇ」と言った。すると彼女はけらけら笑った。
「えーでも私がこの授業とれなきゃ誰もとれないでしょ~」
この感覚である。京大に蔓延する、「なんだかんだいっても、俺/私ができなきゃ、誰もできないだろう」という感覚。
これがこの大学の病理の根幹であると私は思っている。
自分なら授業サボっても麻雀してても遊んでも夢見ても変人でも自信家でもやっていけるでしょ、という感覚。
それは野心ではない。ポジティブさでもない。もっと単純な、「自分という存在には意味がある」くらいの根本的楽観視のことだ。他人にできなくても自分にはできる、という感覚。
そしてそれは、私がこの大学で出会った人間たちの、一番好きなところでもある。
……だんだん惚気じみてきた。よろしくない。
授業をサボることも麻雀とボードゲームで夜を潰すことも古本屋に一日中いることも引きこもることも夜通し鴨川で飲むこともそんで午前中の授業行けないことも、京大っぽくて、いかにも森見登美彦的で、いい大学生活の思い出だけど。それ以上に京大に流れる「なんだかんだ、俺/私ならいけるんじゃない? つーか俺/私以外の人は無理じゃね?」という空気が、私にとっては居心地がよかった。
それは勘違いかもしれない。というかほぼ勘違いである。恋愛初期の「自分以上にこの人を理解できる人なんていない」みたいな勘違いとよく似ている。
若さ特有の万能感。社会に出たら潰される楽観でもある。人生舐めてるぞてめぇ、と、どっかの大人に怒られそうな。*2
だけど私は、「まぁ、自分以外にこれをできる人はいないだろう」という勘違いをしないと、人生なんてやっていけないように思う。
何かをやろうと思ったとき、「自分以外にやってくれる人がいる」なら、何もしたくならないもの!
きっと「自分以外にもこれをできる人は沢山いる」ことを知ってコツコツ努力をするようになることも、「自分はできないんじゃないだろうか」と心配して自分の力量を見極めることも大事なことだ。
……大事なことなんだけどさ。
しかし、京都にそんなまっとうな常識溢るる考え方なんて存在しない。素質がそもそもアホで夢想家でロマンチストでピュアで怠け者の人間が集まると、みんなして「まぁ、自分なら、これくらいやれるでしょ~」くらいに思うようになるのである。*3
恐るべき大学の空気。こわっ!
かく言う私も六年間を通して、マジで図々しく育ってしまった。ぜんぶ京大のせいだ。ってことにしとく。本来もっと謙虚な人間だったのにねぇ。
でも、私はここで出会った友人たちの、微妙な不機嫌さとちょっとばかりの凶暴さが、けっこう、好きだったのである。
何度も「どうして今までそれで生きてこれたのか!」と思ったけど、ちょっとはそのまま生きててほしい、気もするよ。
というわけで、京大を卒業する皆様、卒業おめでとう。ついでに自分もおめでとう。
これからも、あなたができないなら誰もできないよ!
だから頑張ってね、応援しております。
私も京都でがんばりまーす。たまには遊びに帰ってきてね。その時は鴨川か我が家で飲もう、ね。