その本棚に潰されなくとも
昨日の朝、がたがたっ、と私の横が揺れた。
なんじゃらほいと思って顔をあげると、揺れていたのは私の頭の前にある大きな本棚だった。
そして本が二冊ほどジャンプするみたいに、飛び出していった。
ひゃーすごい、と思うも束の間、自分も揺れていることに気づいた――くらいのタイミングで、揺れなくなった。
そう思って目の前の本棚を見つめた。体育座りでパンを食べていた私の横には、本がぎっしりと詰まった、背丈よりも大きい本棚があった。めっちゃ普通に揺れていた、のだ。さっきまで。
わ-、これでもしこの本棚が倒れてきてたら、完全に私直撃じゃないですか!
と思って、のそのそと本を二冊拾ったところで、ふと、既視感を覚えた。
なんかこれ、前もあったぞ、と。
七年前だ。
高校二年生だ。もうすぐ高校三年生になろーかという季節。たしか、当時の私の「志望校」であったところの京大入試でyahoo!知恵袋に入試問題が投稿される、というけったいな事件が収束した頃合いだった。*1
期末テストの期間で、だから午後の割とはやい時間に図書室にいたのだ。もちろん図書室へ勉強しに行ったわけではない。趣味の本を借りていたのである。今にして思えば勉強しろよとツッコむ。うーん期末テストはちゃんと終わっていたのだろうか……。
しかしその日、もちろん高知県は揺れなかった。東北で大変な地震が起きたことなんて、気づかない。図書室で私が本を選んでいると、「ピンポーン」と校内放送が鳴った。
「東北で大きな地震が起こりました、津波の心配がありますので全校生徒は速やかに帰宅してください」
――その放送を聞いた時の風景を、私は今でも鮮明に覚えている。
私は学校の図書室の、大きな大きな棚の、村上春樹全集の前にいたのである。
その時の一瞬、にわかに思った。
「ああこの瞬間起こった地震の場所が高知だったなら、私はこの本棚に潰されて死んでたのかもな」と。
結局、図書室の司書さんに急かされながら選んだ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を借りて帰った。
その時、私は当時の東日本の凄まじい状況など何も知らなかった。ほんとうに何も。帰ってからテレビをつけて驚いた。
あの時見た、終わらないニュースの風景。そのテレビを青ざめながら見ていた母親の横顔とか、異様なまでに流れる「ぽぽぽ~ん」のCMとか、私はたぶん一生忘れないだろう。
だけどその記憶以上に、図書室で感じた「あ、この地震がもし高知で起こっていたら」という感覚を覚えている。
「ここで本棚に潰されていたのは自分だったかもしれない」という感覚。
いや、そりゃ「この地震が高知だったなら本棚に潰されていた」とか完全に不謹慎な発想である。何が本棚やねん、本当に震災にあわれた方の気持ちを考えろっ、という話でもある(もしこれで気を悪くされた方がいたら本当にごめんなさい)。*2
それでも「あ、もしかしたらこの瞬間死んでいたのは私かもしれない」「なのに私じゃなかった」という感覚は、私のどこかにずっとずっと残っている。
だってあの時私は自分より大きな背丈の本棚の前にいたのに。
ニュースで地震の映像を見ると、ほんとうにつらい。何がどうして誰かの好きな人や街や大事なものをぜんぶ壊されなくちゃいけないのかと思う。どうして、地震とか突如やって来る「そういうもの」は、私たちの大切なものを奪ってゆくのか。
だけど、そんな私の嘆きなんて知らずに、「そういうもの」は手を変え品を変え私たちの前へやってくる。
その本棚に潰されなくとも。地震にたまたま遭わなくとも。
災害だったり事故だったり病気だったり犯罪だったり「そういうもの」は、私たちのもとへやってくる。
「そういうもの」は、できるだけなくしてほしいけど、きっとなくなることはない。
さあもうどうすればよいのかっ!
と地球にツッコミを入れたくなるけれど、しかし地球は依然としてすっとぼけた顔でボケ続けたままである。居住まいを正してくれる気はなさそうなのだ。どういうこっちゃねん。
だけど今のところ地球がどうにかする気がないのならば、どうにかこうにか、奇跡的に目の前にいてくれるあってくれる私なりの好きなもの好きな人その他大切なものものを、大切にしてくしかないんですよね……。
ああもう、どうかちまちま地球が耐えて、あるいは人間がなんとか技術を上げて、大きな被害が出るような災害がひとつでも減りますように~~~。もう、たのむよほんと……!
それにしても。
あの時ぞわっと感じた「今、ここで死んでたのは私だったかも」という感覚も、「だけど私じゃなかったんだなぁ」という心情も、色んなことに対して「こわいこわいこわい」と思う臆病さも、なぜかいまだに大きい本棚の前にいることも、7年たっても変わることはないけれど。
それでも私は、まだここにいるんだよなぁ。
なんだか不思議で怖くてよく分からなくて、でも、当たり前じゃないのだ、と、笑ってしまう。
当たり前じゃないよね。明日もがんばっていきましょーね。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/04/08
- メディア: ペーパーバック
- 購入: 8人 クリック: 25回
- この商品を含むブログ (62件) を見る
ちなみに村上春樹の小説は高校生の時読んだけど「『ノルウェイの森』しか好きじゃない」というのが本音であった。私が彼の作品をちゃんと読むようになるのは、もっとずっと後の話である。
なぜ京大生は無駄話が得意なのか?
いつだったか、森見登美彦さん原作の映画『夜は短し歩けよ乙女』を見た感想として、「すべてが無駄で埋め尽くされており、こんなにも大学生活は無駄なものでいいのかと思った」というものを見かけた。
ちょっとどなたのTwitterだったのか失念してしまったので(もしこれ読んでる方で呟いた方がいらしたら教えてください)、正確な言葉は覚えていない。しかしまぁとにかく「すべてが無駄」という極めてまっとうな感想は、私の心に残った。
まぁ、『夜は短し歩けよ乙女』の世界には就活もインターンも学費のためのバイトも結婚を見据えた恋愛も(たぶん)存在しておらず、まったくもってその内実は無駄としか言いようがない。たしかに。
しかし私は思う、京大生って、無駄、もっというと「無駄話」が得意なんだよねぇ……。
たまにネットの海にぷかぷかと浮かぶ京大出身のブロガーさんの文章*1を発見する。読むと、みんな口から生まれて来たのかというくらい無駄な文章が得意だなァと思う。いや褒めてるんですよ。というか「無駄」な話を読ませるのが上手い。技術がすごい。
この「京大出身文筆家は無駄話を書くのがうまい」現象、なんなんだろうと思ったのだけど、まぁひとつは京都大学(「よっ!」という歌舞伎的合いの手を入れてほしい。嘘です。)の教育のたまものではないか、と思う。*2
文系の場合、学部三回生くらいからゼミ形式の授業に出る。ゼミは基本的に「自分の発表」(要はレジュメつくってプレゼン、みたいなやつ)を中心にまわる。しかしこの発表だけならたぶんほかの場所でも沢山やっていることだろう。っつーかたぶんほかの場所のが多い。そして私が経験した限り、まともな発表なんてほぼできた試しがない。大抵の学生は、「とほほ」というちびまる子ちゃん的溜息を浮かべて終わる。
そう、重要なのはそこじゃないのだ。
ゼミでは、いつも「他人の発表に対して、なんでもいいから質問」という時間が課せられる。これが学部の時からずっと続く。
大抵、学生がする質問なんてたいした質問がでてこない。「素朴な疑問」とかそういうのが多い。
しかしゼミの先生は、それを「いい質問だね」と言って引き取る。
そして、「きみのその質問と同じような話を、この先行研究がおこなわれていて、その先行研究の文脈の中で、この立場を取ったってことになるんだよ」という風に説明する。そこで私たちは気づく。「いま自分がもった疑問は、既に誰かが研究していて、その文脈の中にあるのか……」と。
そしてこの文脈というもののつなぎ方を、先生から、学ぶ。そうか、己の疑問というのは大抵どこかの人が発した疑問に基づいていて、オリジナルというものはほとんどありえず、誰かがどっかで言ってることなんだな。ならそれを読まなきゃならんな。
そういうふうに、私たちは、文脈というものの存在に気づく。
無駄話というのは、基本的に「文脈の集合体」である。それは連想ゲームなのだ。「あれ」があるなら、「これ」もあるでしょ。そんなふうに無駄は積み重なる。ひとつシンプルなことを提示する、というのではなくて、そのシンプルなはずのものに、「こういう文脈でも捉えられるよ」「こういう話もあるよ」と、つなげてゆくのが無駄話というものだ。
大抵京大にいたら、サークルにひとりやふたり「無駄話のうまい先輩」というのがいて、その先輩から私たちは無駄話のつなげ方を、学んでいるとも知らずに学ぶ。そしてその先輩というのも、どこかのゼミの教授や、先輩や、そういう人がオリジンとなっている。
無駄話は伝播する。受け継がれてゆく。いつしか大学に蔦が這うようにしてはびこる。
こうして私たちは、無駄話を学ぶ。
ほかの大学にも存在しているものなのかもしれない。でも無駄話というのは基本的に「無駄な時間」からしか生まれない。当然だ。そして文脈というものも、文脈を理解するのにかかる労力やらコストやら時間やらを待てないと、つかめない。
その無駄な時間をゆるしてくれるのが、京都なのかもしれない。と、私は、思う。
そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ
このブログのコンセプトは「京都の学生生活おすそわけ♡」なはずなのだが、そろそろ本筋から外れすぎてあかんと思う今日この頃である。なんじゃ前回の文章のセブンルールて。自分でつっこむわ。いや書いてて楽しかったからいいんやけど。
しかし京大について語るにしても、いかに京大生が世間のプレッシャーと期待と己の自己像に溺れて変人のフリをしたがっているか、とか、いかに京大男子に新海誠(君の名は。ではない、秒速五センチメートルのほうだ)好きが多いか、とか、そもそも京大男子を知りたければ逃げ恥を読めばすべて事足りる、とか、まぁ、そういう話をしようかなとぼんやり考えて……いたのだが……そんな京大生の生態をみんな読みたいかしら……とちょっと謎と不安にかられてしまった。いやどうなんですかね。
というわけで京大から微妙に外れた京都話をする。のだけど、今日いいたいことといえば、もうタイトルですべてである。
そろそろベスト・オブ・京都小説アンソロジーを誰かつくってくれ。
以上、終了。でもいいんだけど。
いやちょっとお姉さん、思いません? そろそろ欲しくないか、京都アンソロジー。
私は「京都」をひとつのジャンルである、と思っている。
SFとかミステリとかそういうものと並んで、日本人(世界にも、なのか?)の中には「京都」というジャンルが存在しているのである。小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、京都が出てくれば、それはただのご当地ものでもなく、「京都モノ」になる。
京都を無駄に使うことなどほぼ許されない。それはミステリの皮をかぶるならば謎解きをしろ、という引力と同じ類いのものであるように見えるのだ。
たとえそこに舞妓さんや清水寺が出てこなかったとしても、京都が物語に出てきた場合、京都の空気がそこになくてはならない。
やっぱりみんなの中に、京都というだけでそこに内包されるイメージがあって、そのイメージはなかなかどうして明瞭なのだ。京都在住です、と県外でいえば大抵「わー京都か、いいねえ」と言ってもらえるくらい、京都はみんなの心象風景の中に根付いている。ちなみに私は高知出身だが「高知、いいねえ」と言われる回数は5回に1回くらいである(そのほとんどが龍馬とお酒とイケダハヤトさんの功績である)。
ちなみに京都ほどのジャンルになり得る土地は、あと日本では北海道くらいだろうか。北海道文学というのは案外存在していると私は見ている(三浦綾子も『Love Letter』も動物のお医者さんもそうだ)。
で、SFもミステリもしばしばアンソロジーが組まれるのに、京都は案外まとめられたことが少ない。なぜなんだ。こんなにみんな京都が好きなのに。
というわけで、どなたかつくってください、京都小説アンソロジー。読みたい。
ぜーったいに京都の安易なイメージにのっからず、それでいて京都だなぁと思う空気感があり、「おお、これも京都」みたいな意外性があるものがいいな。
斎藤美奈子の『妊娠小説』みたいにむしろ『京都小説』で一冊批評本を書いてもらってもよろしい。うん、むしろそっちのが面白そう。
たとえば『ノルウェイの森』はまぎれもない「京都小説」だと思うし(阿美寮は京都になきゃいけない気がする、なんとなく)、入江敦彦の『イケズの構造』みたいな京都論ももっと読みたいし、野崎まどの『know』みたいな京都の精神ががつっとでた小説(個人的にはあーいうのが京都っぽさだと思う)ももっと知りたい。綿矢りさも京都っぽい作家さんだと思う、なんかこうあの手さばきの緻密さに反した「しれっと感」みたいなものが。森見登美彦と万城目学がいかに京大生のイメージを変えたかってのもだれか今のうちにまとめといたほうがいいのでは。
ねぇ、ほら。なにとぞ。よろしくお願いしますよ。
京都論の傑作。
ふだんSFを読まない私も面白かった。おすすめ。
大学院生がアイドルから学んだ「読んでて楽しい文章」を書くためのセブンルール
ネットで文章を書き始めて、はや数年が経とうとしている。
ありがたいことにたくさんシェアしてもらえた記事があったり、
こちらの記事をもとに「本を書きませんか?」と出版社さんから言ってもらえたり、
ある程度、日々たのしく文章を書き、読んでる方にもちょっとは楽しんで読んでもらえてる……のではないかと……思います(なんかこう書いてたら自信がなくなってきましたが!)。
で、私が文章を書き始めたのって、だいたい「女子アイドル鑑賞」にはまった時期とぴったり重なるんですよね。
ちなみにAKBグループおたくです、乃木坂も好き(最愛の松井玲奈ちゃんが卒業したりアイドルおたく人生にも色々ありましたが、語れば長くなるのでここでは割愛)。
私はたぶん誰よりもアイドルから文章の書き方を学んだんですが、この話を先日友達にしたら「それ面白いからブログとかに書きなよ」ってすすめられまして、なるほどこういうのをブログに書けばいーのか! と思い立ちました。はい、というわけで「私がアイドルから学んだ文章の書き方」というお話。
アイドル。それはひたすらに「歌やダンスの実力だけではないところで、観客に楽しんでもらうこと」を志向する方々。
つまり、私のよーな「文章の中身や技術だけではまだそんなに楽しんでもらえねぇ!」というような人間こそ、アイドルの真似をすべきなのでは、と思っているのです(逆に、文章の中身がものすごく情報として価値がある人は真似しなくてもいいと思う)。
ダンスのプロでも、歌のプロでもない。私たちは「みんなを楽しませること」のプロだ! と、アイドルの方々は言っているように見えます。
その技術をね、私は文章に応用してみたかったんです。
というわけで、セブンルール。*1
①書き手の表情がわかりやすいこと
②読み手をひとり決めること
③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること
④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること
⑤できるだけ短く書くこと
⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと
⑦愛があること♡
①書き手の表情がわかりやすいこと
喜怒哀楽がはっきり分かる子って、見てて楽しくないですか。
……はい今ちょっとこれ引かれる気がした。あかん。私の女の子の趣味紹介の場ではない。いやあのねっ、たとえば女の子がステージで踊ってるとき。その子の表情が一辺倒よりも、笑ったりちょっと切なそうになったり驚いた感じになったり、いろんな表情してたほうが、見てて楽しくないですか!?
それと同じで、私は、できるだけ「書いてる人の表情」が分かるような文章を書きたいんですよ!
今テンションが低いのか高いのか、怒ってるのか笑ってるのか。できるだけ無表情な文章を書きたくなくて。読んでる人が、書き手の声が聞こえるくらいの、表情豊かな文章が書くこと。を、目標に置いております。サイレントなマジョリティーは目が死んでるように見えちゃうからな!
②読み手をひとり決めること
アイドル文化を知って「おもしろ~~」と思ったのが、「レス」文化。これ何かと言うと、握手会などに頻繁に来て知ってるファンの人を、アイドルがステージ上から「やっほー! 見えてるよ!」って指さしたりウインクしたりしてレスポンスを返すんです。すごいよね、アイドルの記憶力……。でもこれ、ファンがテンション上がるの、わかる。「私に向かってウインクしてくれた!!」ってめちゃ喜ぶ。
で、まぁアイドルではない一般ピーポーにファンはいないのですが、文章を書くとき、脳内に「この人」って読み手をひとり決めてみるんです。要は、エア・ファンを脳内で製造する(あれ、そろそろまじで引かれそう、我ながらきもちわるい)。
この人、ってのは誰でもよくて。家族でも友人でも同僚でも恋人でも。あと私がよくやるのは「○○歳くらいの自分」。中学生の私に読んでもらう、と想定する。
そんで「この人に読んでもらう」って決めて、その人のためになりそうなこと、その人に言いたいこと、その人に楽しんでもらえそうなことを、書くんです。
実際に、その人に読んでもらわなくてもよくて。ある程度「こういう人に届けたいなー」というのがはっきりしてると、その人と同じような境遇の人にも、楽しんでもらえる気がします。これ、名づけて「アイドルはひとりにウインクしたつもりでも、その半径1メートルの周りのファンはみんな俺にウインクしてくれたと思う現象」。みなさん狙い撃ちしていきましょう(さらに引かれそうな発言)。
ま、まぁビジネスとかでいうとマーケットをちゃんと決めるとかそういう話ですね。
③カメラに抜かれそうなキャッチーな言葉を入れること
はい、問題です。ステージ上にいるアイドル、あるいはバラエティに出たアイドルが「カメラにたくさんうつる」ためにはどうしたらいいですか!? そう、キャッチーなことを言うあるいはキャッチーな表情(ウインクとか)をつくること!!! 売れてるアイドルってまじでこういうのうまいよね……指原さんとか。
というわけで、一般平民の我々も、文章でカメラにうつっていきましょう。
どういうことかと言いますと、「SNSで拡散するときに、その言葉を抜き出してシェアしたくなる」言葉をちょっと入れるよう、鋭意努力するのです。
私もこれなかなかできないんですけどね……。どこが読み手の人に刺さるかわからないから、まだまだです。「あ、そこ抜き出すんだ!」みたいなこといっぱいある。しかしトライアル・アンド・エラーはしてみると楽しい。
キャッチーなタイトルとか、キャッチーな決め台詞(当社比)とか。ちょっと意識するとちがう、かも。私も修行中の身なので、もし何かコツがあれば教えてください……。
④ありきたりな言葉で隠してないか確認すること
みんなと同じこと言うアイドルは、300人以上いるAKBグループの中じゃ目立てないぜ! 売れたアイドルはやっぱりみんなと違うことしてるぞ! すごいぞ!
というわけで、何を書くにしても、「すでに誰かが言ってそうなことを書く」ことはできるだけ避けたいな~~って思います。
ていうか、すでにどっかで読んだことあるもの読むの、まじで時間の無駄で苦痛じゃないですか。私は嫌だ。僕は嫌だ!
せっかく読んでくれている人に時間の無駄使いをしてほしくないので、できるだけ自分だけが言ってそうなこと書くことを、意識。
⑤できるだけ短く書くこと
これもまぁ、読んでくださってる方に時間の無駄をさせたくないぜ、と同じ話なんですが。
アイドルさんたちもね、やっぱり短くて的確なコメントをする力が、すごい。泣いててもコメント求められるし、怒っててもコメント求められる。なかでも売れてる子は、コメントがだらだら長くない。というか、みんな売れるに従って短くコメントするようになる。あーいうの、売れ出すとマネージャーさんとかが指導し始めるのかな。
私はほうっておくと文章が長くなってしまうので(今回も長くてすみません)、「できるだけ短く!」を心がけて、時間あるときはちゃんと削る。時間ないときはそのまま放り投げちゃいますけども。
⑥自分が書いてて楽しいと思えるものを書くこと
やっぱり、「ステージ上で歌って踊るの楽しい~!」って言ってるアイドルが大好き~~~~~!!!!!!
……という話よりも(ちがうんかい)、まず書き手が書いてて楽しい~と思わないと、読んでもらってる方にも楽しんでもらえないんじゃないだろーか……。と、思います。
どんな題材でも、書いててなんか楽しくないな、という時はできあがったものも「うーん」と微妙なものが多くて。それって書いてる時に読んでる自分がノーサインを出すから楽しくないんじゃないかと。
書くことは基本的に楽しいので、やっぱり楽しんで書きたい、ですね。いつでもね。読んでる人も楽しんでもらえるとさいこーですね。
⑦愛があること♡
世界には愛しかないんだ……ではなく。*2
これはもう個人的な信条なのですが、やっぱり、愛がない文章は世に出したらあかん、と思っているのです、自分に対して。ほかの人の文章がどうかはどうでもいいのだけど。
私の場合、読んでくださってる方とか、あとは何かについて書くときはその何かへの愛とか、まぁ、そういうのがない文章になると、わりとその時の自分しか楽しめない文章になるんですよね……はは……。ていうかあとで読んで「うげっこの文章消したい」ってなりそうで、嫌。自分が書いてすっきりしたいだけなら、公開しなくていいわけだし!
アイドルさんたちを見ていると、あの若さで、ファンの人とか観客の人に愛をあげてる様子に、やっぱり感動しちゃうんですよ。私は。
好きな作家さんの文章読んでても、アイドルを見ていても、やっぱりそこで自分が愛をもらう気がするから、元気になるわけで。
というわけで、私もどうにか愛のある文章を書きたいですね。
まぁこれ未来の自分が読んだら青臭すぎて死にそうだけど! 知らない!
はい、というわけで、アイドルから文章の書き方を学んだ、マイ・文章・セブンルールでした。
昔読んだライターさんの文章に「文章を書くときのルールなんてのは、癖みたいなもんで、どや顔で語るべきではない」っておっしゃってて、まじでその通りだとは思うのですが、まぁ2018年現在持ってるポリシー、くらいに考えていただければ幸いです。
それにしてもアイドルさんたちはこれを生身の人間でやってるんだからほんとうにすごい。天才ばかりである。
立て看板のないきれいな大学になれてしまった
世間をお騒がせしながら(したのか?)大学から立て看板が撤去された。
そして現在、ぶっちゃけ、大学の周りがきれいになった。*1
正直な話、私は立て看板を立てたことも撤去したこともなく、特別な思い入れがあるかないかと言われればまぁないほうである。というか立て看板、撤去されるまでその存在を自明のものとして受け取っていたので、「そうか、そんなにじゃまなもんだったんか……」と改めて大学という場所をめぐる政治性に思いを馳せる、くらいの行動しかとっていない。
(というわけでここでも立て看板撤去問題についてあーだこーだ論じることはない。そういう話を期待している方は回れ右でお願い致します)
しかし今日になって気がついたことがある。
あ、わたし、立て看板のない大学、ふつうに、慣れてるわ。
サークルの宣伝や大学でのイベントから政治的なメッセージに至るまで、様々な主義主張を載せていた大学の立て看板。
基本的に春の新歓時期には、キャンパスを囲むようにところせましと並んでいる。春が過ぎても、そこに雑草が生えているのと同じような割合で、「ふつうに道にあるもの」として立て看板はあった。
他大学の友達が遊びに来たとき、大学への批判を書いた立て看板を見て「え、こんなんあるのこわい」と笑っていた時にはじめて、「そうか、これはうちの大学特有のものなのか、まぁそらそうか」と認識した思い出がある。
だから、「立て看板撤去」と聞いた時、「へー、なんか風情がないなー」くらいしか思わなかった。
しかし今になって思い出すことがある。
高校生の時、母と一緒にはじめて京大に来た。その際、母が言った。
「なんか京大ってもっとビラとか散らばってて、めちゃくちゃ汚いイメージあったけど、きれいになったねぇ」
たしかにはじめて訪れた大学のキャンパスに、汚いイメージはなかった。
今思い返すと、きっとその汚いビラや看板は、時代とともに減っていった――というよりも、減らされていったんだろうな、と、思う。
清潔さは統制の中にある。街や場所がきれいになればなるほど、いろんな規則は増えるし自由は減ってゆく。
私はそれがいいことなのかわるいことなのか分からなくて、たまに、混乱する。
きれいなものうつくしいもの清潔なものがみんな好きで、私もまぁ好きで、それでいいんだけど、ならばそこからはみでるなにかはどこへ行くのか、と思う。
「きれいなもの」に慣れると、「きれいじゃないもの」をゆるせなくなる。
「立て看板くらいあってもいーじゃないか」と笑う人がいて、正直私もそう思うのだけど(だってあの立て看板を見て「大学を倒そう! 社会を倒そう!」と思った人が何人いたのだろう?)、けど、立て看板くらいも、ゆるせないんだろう。もはや。
所詮立て看板だのなんだの京大生というエリートの遊びだろと思うのだが、それすらゆるされなくなってくのだな、という緩慢とした諦念をいだく。
だってきれいじゃないから。
きれいじゃないものは見ないでいいよ、と言われることに慣れていく。
不安は自由の眩暈だと言った人がいたけれど*2、誰かが不安をゆるせないから、自由はなくなってゆく。
不安はぐらぐらしていて、不安定で、秩序がなくて、きたなくて、どろどろしてて、何が飛び出すかわからない。
いいことなんかわるいことなんか分からんけど、そうやって私たちは統制されることに慣れてゆくし、まぁ、こうやってなにかに飼い慣らされてゆくのだなぁ、と、ぼんやりと食堂の海藻サラダを食べながら思う午後なのであった。
しかし今日は天気がいいな。
夏の下鴨神社はとにかく最高、すきすきだいすきちょうあいしてる
……ってのは舞城王太郎先生リスペクトな題名をつけたかっただけなのですが。すみません。*1 しかしちょうあいしてるかどうかはともかく、京都の観光地のなかで一番思い出深い場所、と聞かれたらなんだかんだ「下鴨神社かな……」と答える気がする。ちなみに一番好きな場所って聞かれたらまたほかにあるのだけど、それはまた別の時に。
下鴨神社に行くと思い出が多すぎてぜんぶの記憶がとろとろ溶けていってしまうので、「あれこれ何回生の時の記憶だっけな」と時間の位相がよく分からなくなる。題して下鴨神社の思い出、真夏のアイスクリームのごとし。とろとろっつーよりどろっどろに記憶が溶けている。たぶんそれは下鴨神社に行く機会が、京都の暑い暑い夏に多かったことにも所以するのだろう。
下鴨神社になんでこんなに思い出が多いのかといえば、大学からすぐ近くにあるのもあるし、下鴨神社は気軽にいけるイベントが多い、あと拝観料がかからない。最高。
京都に来る前は下鴨神社といえば『有頂天家族』のイメージしかなかったのだが、たぬきは結局いまだに一度も見たことがない。私たちの前に姿を現さないだけだろうか? それとも私が人間とたぬきが化けた人間を見分けられないだけなのか。
私は大学でふたつサークルに入っていて、ひとつが「京都の寺社仏閣を観光するだけ」という意識低いどころの話ではないのほほんとしたサークルだった。のほほんとしてるというか、例えば活動日にみんなで寺社仏閣に向かい、そして境内に入る前に「はいじゃあ十六時にもう一度ここ集合で~」と解散する(つまりはサークルで行くのに個人で各々観光する)、個人行動ラブもいいとこな団体だった。ふつうサークルで観光ってなったら皆でぞろぞろ行くもんだろう。*2上回生ともなれば「え、今日銀閣寺? 前に行ったしもういいや、それより哲学の道にあるカフェ行こうよ~」と、 観光せずに集合時間までカフェでだらだら喋る体たらくである。どゆこっちゃねん。しかしそんなマイペース・サークルに入るくらいなのでやたら変な先輩が多くて楽しかったなぁ……って過去形にするほど昔の話でもないのだが。これ美研の人読んでんのかな。
そんなサークル活動でいくつかある「リア充っぽい」イベントのひとつに、六月頃、「下鴨神社にいって蛍を見る」というものがあった。下鴨神社といえば「大量の蛍を川に放流する」時期があって、下鴨神社の境内の川に蛍があふれるほどにいる時期があるのだ。*3
蛍をちゃんと見る機会なんてたしかにそんなに多くなくて、案外「見よう」と思わなければ見えないものである。しかし京都の大学生はそれこそ銀閣寺近くの川辺やら下鴨神社やら、蛍を「見よう」と思ったらわりとすぐに見ることができる。
だけど実際によし蛍を見るぞと思って見てしまえば、結局「蛍だなぁ……」としか頭に浮かんでこない。枕草子もびっくり村上春樹*4もびっくりな情緒もカスもない「わー蛍だー」的な感想しか口から出てこない。ごめんな清少納言。今思い出してみても蛍の風景より蛍見ながら友達と喋ったことのほうがずっと記憶に残っている。ごめんな蛍。
けど、私は年に一度あるサークルの下鴨神社で蛍を見る会がわりと好きだった。それは蛍のおかげというわけではなく、ひとえに下鴨神社という場所のおかげである気がする。夜の下鴨神社というのは、入口から境内がずっと遠くて、糺の森に囲まれた暗い道を通ってゆく。一回生の時にはじめて行った夜の下鴨神社は、妙に雰囲気があって、「おお、私は京都に来たんだな」とちょっと感動した。
下鴨神社には、そういう、「いかにも京都じゃないけどやっぱりなんかこれが京都」みたいな雰囲気が、あって、好き。
七月になれば下鴨神社では「御手洗(みたらし)祭り」がある。あーこのお祭りほんとに京都で一番好きなんだよな。祇園祭よりもみんな御手洗祭りに来てくれ、と京都七年目の人間は思う。*5
御手洗祭りというのは、神社の境内にある池に足を膝まで浸しながら、みんなでろうそくを献灯する、というけったいなシチュエーションを楽しむことができる。七月といえど水はだいぶひんやりとしていて、まるで水飴の中を歩いているみたいな、変な気分になる。みんなで水の中を歩くというのはどうも幻想的というか異界じみてるというか、それこそたぬきが化けてたり妖怪のひとりやふたりいてもおかしくないような、そんなちょっと不思議な雰囲気がある。なんつーかな、千と千尋とかあんな感じ。いろんなものが混ざり合う感じ、山口昌男の本に出てきそうな感じ。楽しい。
ちなみに下鴨神社には、源氏物語の歌が載ってるおみくじがあって、お祭りのついでに友達と引くと楽しい。私の友人は彼女とあれこれあって別れたばかりの時にそのおみくじを引き、見事六条御息所*6の歌を引き当てていた。友人はその歌を国文専修の私に見せて「なぁ三宅これどういう意味?」と聞いてきたが、「奥さんを呪い殺したメンヘラ美女の歌でさ……」とは言えず、なんと説明したものかと困り果てた。まぁそのまま説明しましたけれども。
それから八月になれば、どう考えても古本まつりでしょ。下鴨神社では毎年「下鴨神社納涼古本まつり」を開催してるのだけど、いやもうこれが暑い。本当に暑い。考えただけで汗が出そうなくらい暑い。なんせ八月の京都の野外である。『夜は短し歩けよ乙女』に先輩が乙女を追っかけ回した舞台として、この下鴨神社の古本まつりが出てくるのだが、「こんなに暑い中で欲しい本もないのに追い掛け回すなんて、本当に先輩は暇だったのだな……」と私ははじめて古本まつりへ行った時に思った。京都の夏は蒸し風呂もいいとこ、というかサウナに暖房扇風機かけてオーブントースターでじりじり焦がしました、みたいな「湿度も温度も高いってどういうこっちゃねん」とツッコミを入れたい暑さなのである。しかしそれに加えて神社。蚊が多い。もう一度言う。蚊が多い。大事なことだから太字にしてしまった。まぁ蚊が多いわ日射しは強いわ蒸されるわで三重苦どころの話ではないのだが、そこは古本まつり、やっぱり安くなってるいつもは手が出ないあれこれの本を手に入れるべく奔走しないわけにはいかない。海賊王になりたいワンピースよろしく本の山からじりじりとお宝を探すのである。しかもけっこういい本が売ってあったりして、やっぱりこの世は宝島。うん。これドラゴンボールか。まぁこういうふうにいい本が見つかるから、結局次の年も「暑い……」とげんなりしつつ行っちゃうのだよ。
去年の夏、いろいろとしんどいことが重なって心底疲れ果てていた時、夜ぶらぶら散歩をしていて、ふと下鴨神社に向かったことがある。ひとりで用もないのに下鴨神社に行ったのははじめてだったのだけど、夜の下鴨神社というのはやっぱり妙に暗くて静かで、ひとりでぼんやり歩くにはなかなかどうしてよき場所だった。夜だったから拝殿のとこには入れず、とりあえず引き返してきたのだけど、それまでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるしていた思考が、下鴨神社を歩いてるうちに、すとんと「まぁ、周りに感謝してがんばろう」という至極まっとうな結論に至ったのをよく覚えている。そしてなんとなくその時、私は下鴨神社という場所のことを信頼したのである。
信頼というのは普通は人に使う言葉であると思うのだけど、たまに「場所」に対しても私は信頼できるなと思う時がある。うまく言えないのだけど、この場所があればなんか大丈夫な気がする、みたいな場所のこと。もしかしたらたくさんの人に信頼される場所のことを人は「聖地」とか「神社」とかそういうふうに名付けるのかもしれない。
昔読んだ本で、エリアーデという人が「聖なる場所」ってのはこの世にあるし、それは「いろんなものが帰ってきて旅立ってく場所なのだ」みたいなことを言っていた。些か宗教的な話すぎて寺社仏閣だって友達と喋るために使うくらい俗的な人間にはちょっとよく意味がわからない、と思ったけれど、下鴨神社のことをそう呼ぶなら、なんとなく、わからないでもない。下鴨神社の思い出は線上にあるのじゃなくて、ぜんぶ混ざってしまう。みたいな話。うまく言えないけど。
ともかく、夏の下鴨神社が私は好きである。蚊は多いし暑いけど、歩いてて楽しい場所。京都の観光地だと案外見過ごされがちなんだけど、私は好きなんですよ、ぜひ京都にいらした際はお立ち寄りください、という話でした。
今年ももうすこしすれば、夏がやってくるなぁ。今年の夏も、生きのびましょう。
*1:『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎、講談社)、名作なのでみんな読んでくれ
*2:新歓で「あっこれそんなにリア充する感じのサークルじゃないや」と気づいた新入生はここらへんでリア充観光できる別の観光サークルに行く、という春の風物詩。しかし非リアと非リアが集まるとそこはリア充になるという法則のごとく、意外とサークル内恋愛は多かった。完全に余談だけど。
*3:蛍の茶会なんてものもある。茶会には行ったことないけれど。ほんとに放流された蛍はきれいです。もしこの時期に京都いらっしゃる際はぜひ。
*4:『蛍』という短編がある。あんまり知られてないけど、有名な『ノルウェイの森』の元ネタになった短編小説である。
*5:御手洗祭りの詳細はこちら。
世の中には「インプット」型と「攻略」型がおりまして(という名の受験勉強攻略法)
友人が「今年も死んだ目をした新入生が入って来たよ~」とにこにこして言っていた。死んだ目をした新入生。「まぁ四月の最初だけは死んだ目してるよ」と友人は笑う。
そりゃそうだ。友人は某予備校で塾講師をしていて、浪人生を主に教えている。
もうそんな時期か~受験生ははじまりの季節か~と、むかし塾講師をしていた大学院生は彼らのことをぼんやり思う。
受験勉強、めんどいよな。
じゅけんべんきょうという久しく離れた言葉を思い返すと、「自分の強みを理解しよう」という謎の教訓が垂れ流されていたことを思い出す。今気づいたけど就活でも同じこと言われてそうだな。受験勉強するなら、きちんと戦略を立てましょう。そのために自分の強みを知って伸ばしましょう。自分の弱みを知って鍛えましょう。そう教えられる。と思う。少なくとも私はそう教えられた。子育てとかも一緒かなあ? やったことないから知らんけど。
子育てはしてないものの、私はアルバイトで個別の塾講(一対一で教える塾の先生)をしていた経験がある。その時、気がついた。何かを教えたり習得させようと思えば、その子の「強み」を理解するよりももっと、その子の「楽しさ」を理解したほうがずっと早い、ということに。
そもそも、強みなんて人と比べればぽろんと崩れ落ちるものである。「強みなんかないもん何もできないもん……」みたいなモードに入ってしまえばすぐに弱る。何より中高生くらいだと「個人の機嫌やモチベーションの有無」みたいなびみょ~なとこにすぐ左右されてしまう。得意教科はあくまで相対的なものでしかないというか、まぁぶっちゃけ強みって当てにならなくないか!? と塾講師をしていた時まじで思った(っていうより自分が死ぬほど得意教科と苦手教科がはっきりしていた人間だったので、得意や苦手がはっきりしている子は塾講師なんかに教えられなくても、と思ってた)。
というわけで、「強み」よりも大事なもの。それは「楽しさ」のポイントである。「楽しさ」をどこに見出すか、ということ。
楽しさ。それは国語が好きとか数学が嫌いとかそういうことじゃなくて、もっと抽象的な話だ。
受験勉強という同じタスクをこなしていても、「インプット」が楽しいか、「攻略」が楽しいか。これって人によって、びっくりするくらい違う。
たとえばインプット型の子は、授業時間中の雑談が好きである。雑談っつってもあれね、たとえば「数学キライかもしれないけど、元々数学って哲学からできた科目なんだよ~~」とか「芥川龍之介は頭よさげに見えるけど、案外師匠の漱石が言ったことをまんまパクッてるんだよ~~」とかそういう話。ちょっと小ネタになりそうな雑談をすると、ぱっと目を輝かせて笑う。
たとえば攻略型の子を教える時は、ゲーム形式にするとか褒める回数を増やすとかそういうことをやると、すぐにテンションが上がる。ちょっと競争心盛り立てるとか煽るとかそういうことを織り交ぜたほうが、集中する。
だけど雑談を攻略型の子に話すと、「知らんがな、それよりはよ授業終わらせてくれ」って顔になる。如実。大人から見るとそういう子って「知的好奇心がない!」なんて言われることが多いけどそんなことはない。休憩時間にやりたいこともあるだろうし、効率悪いことが嫌いなだけだ。そもそも関係ない話、聞く理由が見つからないもんね。
反対に、ゲーム形式をインプット型の子にしても「なんでこんな茶番やってんだ……」みたいな白けた顔をし始める。「ええ、勝負……やだ……」と萎えた表情になる。子どもがみんなゲーム好きだなんて思うなよ、って気になるよね。わかる。
ほとんどの子はインプットも攻略も「程度によって」楽しいと感じるものだけど、その程度がどっちのほうが上かっていうのは、人によってだいぶ違う。
難しいのが、両者の断絶。自分にとっての快楽が相手にとっての快楽ではない、ということを結構みんな知らないことである。攻略型は「えっそれは負けるのが嫌なだけでしょ? 勝てばゲーム楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるし、インプット型は「えっそれは興味持ってないだけでしょ? 興味のある分野だったら楽しいし嬉しいでしょ?」とか言ってくるものである。
ああ、断絶。楽しいことは人によってちがうんだよばかやろう!
しかし実際知識を得て嬉しいという体験も勝って嬉しいという体験もコストを払うもので、そこに行きつくまでの体力や気力やモチベーションがある前提だ。どちらに対して「そんなコストを払ってまでやりたくねぇ」と思うか「コストなんて思わないよやりたいよっ」と思うか、その差でしかない。もっかい言うけど、楽しいことは人によってちがうんだよ……。
ちなみに東大には攻略型、京大はインプット型が多いなーという印象。*1
あとビジネス系はやたら攻略型の煽りが多い。みんな任天堂かバンダイの回し者なのかな。
さっきも言ったけれど、大抵の人間は結局オール・オア・ナッシングじゃなくて、程度の問題*2なので、自分がだいたいどの程度の比率かな~と考えてみるのは、受験生じゃなくても楽しい。暇なときにおすすめ。身の回りの他人の比率考えるのはもっと楽しいし更におすすめです。
というわけで受験生が読んでくれてるかどうか分からんけど、塾の先生風にまとめると、受験勉強するうえで大事なのは、自分がどっち派か見極めることだよ! そしてインプット型は息抜きに勉強に関係ある本を読むとか、攻略型は時間はかったり友達と競ったりしてちょっとゲーム要素入れるとか、そういうの取り入れてなんとかのろのろやりきることだよ、というお話です。はい。がんばってね。飽きてきたら自分の中でゲーム要素(攻略型)と雑学遊び要素(インプット型)を入れ替えてみてね。
あと、一番大事なのはむやみに「ああ自分はどっちも楽しめないから受験勉強無理だ……」とか「ゆーて受験勉強ってインプット楽しめなきゃじゃん……」とか勝手に落ち込まないことです。先生困るからね! がんばって明るく楽しく一年間生き抜こ!! がんばって!! 応援してるよ!!
こっからは完全に余談なのですが、この「人は何に楽しさを覚えるのか?」表のマッピングというのは楽しいので暇な時におすすめです。好かれるのが楽しいor好きになるのが楽しい、とかね。*3
眼の前にいる人がどういう作業が本質的に好きな人かを考えるのも、それを分類してくのも楽しいので、いつかなんか表ができたらここで出そう。みなさんもおすすめの快楽分類対立軸があれば教えてくださーい。