立て看板のないきれいな大学になれてしまった
世間をお騒がせしながら(したのか?)大学から立て看板が撤去された。
そして現在、ぶっちゃけ、大学の周りがきれいになった。*1
正直な話、私は立て看板を立てたことも撤去したこともなく、特別な思い入れがあるかないかと言われればまぁないほうである。というか立て看板、撤去されるまでその存在を自明のものとして受け取っていたので、「そうか、そんなにじゃまなもんだったんか……」と改めて大学という場所をめぐる政治性に思いを馳せる、くらいの行動しかとっていない。
(というわけでここでも立て看板撤去問題についてあーだこーだ論じることはない。そういう話を期待している方は回れ右でお願い致します)
しかし今日になって気がついたことがある。
あ、わたし、立て看板のない大学、ふつうに、慣れてるわ。
サークルの宣伝や大学でのイベントから政治的なメッセージに至るまで、様々な主義主張を載せていた大学の立て看板。
基本的に春の新歓時期には、キャンパスを囲むようにところせましと並んでいる。春が過ぎても、そこに雑草が生えているのと同じような割合で、「ふつうに道にあるもの」として立て看板はあった。
他大学の友達が遊びに来たとき、大学への批判を書いた立て看板を見て「え、こんなんあるのこわい」と笑っていた時にはじめて、「そうか、これはうちの大学特有のものなのか、まぁそらそうか」と認識した思い出がある。
だから、「立て看板撤去」と聞いた時、「へー、なんか風情がないなー」くらいしか思わなかった。
しかし今になって思い出すことがある。
高校生の時、母と一緒にはじめて京大に来た。その際、母が言った。
「なんか京大ってもっとビラとか散らばってて、めちゃくちゃ汚いイメージあったけど、きれいになったねぇ」
たしかにはじめて訪れた大学のキャンパスに、汚いイメージはなかった。
今思い返すと、きっとその汚いビラや看板は、時代とともに減っていった――というよりも、減らされていったんだろうな、と、思う。
清潔さは統制の中にある。街や場所がきれいになればなるほど、いろんな規則は増えるし自由は減ってゆく。
私はそれがいいことなのかわるいことなのか分からなくて、たまに、混乱する。
きれいなものうつくしいもの清潔なものがみんな好きで、私もまぁ好きで、それでいいんだけど、ならばそこからはみでるなにかはどこへ行くのか、と思う。
「きれいなもの」に慣れると、「きれいじゃないもの」をゆるせなくなる。
「立て看板くらいあってもいーじゃないか」と笑う人がいて、正直私もそう思うのだけど(だってあの立て看板を見て「大学を倒そう! 社会を倒そう!」と思った人が何人いたのだろう?)、けど、立て看板くらいも、ゆるせないんだろう。もはや。
所詮立て看板だのなんだの京大生というエリートの遊びだろと思うのだが、それすらゆるされなくなってくのだな、という緩慢とした諦念をいだく。
だってきれいじゃないから。
きれいじゃないものは見ないでいいよ、と言われることに慣れていく。
不安は自由の眩暈だと言った人がいたけれど*2、誰かが不安をゆるせないから、自由はなくなってゆく。
不安はぐらぐらしていて、不安定で、秩序がなくて、きたなくて、どろどろしてて、何が飛び出すかわからない。
いいことなんかわるいことなんか分からんけど、そうやって私たちは統制されることに慣れてゆくし、まぁ、こうやってなにかに飼い慣らされてゆくのだなぁ、と、ぼんやりと食堂の海藻サラダを食べながら思う午後なのであった。
しかし今日は天気がいいな。