東京物語

三宅香帆のブログです。日々の感想やレビューなど。感想は基本的にネタバレ含むのでご注意を。

舞台は一人称視点に向いてるーNTL『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

NTL三本目。『戦火の馬』と同じ日に見た。

クリストファーは数学や物理を解く能力に秀でた自閉症の男の子。ある日、彼が可愛がっていた近所の犬が無惨な姿で殺されてしまう。彼は犯人探しをするなかで、家族や近所の人の秘密を知ることになる。

お芝居の仕掛けがとっても面白い! もう舞台装置がものすごくて、うおあーとテンション上がる。どうすごいかというと、派手なほうのすごいじゃなくて、「こんなふうに光と音だけで表現ってできるんだ!」というすごさ。シンプルなのに全部伝わってくる。舞台の上のほとんど照明やLEDの光、そして音、あとは出てくる人間だけで、イギリスの地下鉄やロンドンの風景、クリストファーの家の近所、そしてなによりクリストファーの見ている世界を映し出してしまうのだ。

たとえばロンドンの長い長いエスカレーターに乗る時、エスカレーターといえば上下運動なのでふつうは舞台上で再現することができない。しかしこの作品は、舞台の床にエスカレーターが動く様子をLEDのパネルで作り出し、クリストファーが寝転びながら演技して、「舞台を上から見たときに、エスカレーターで上から下に動いているように見える」様子を作り出す。……伝わるかしら。

だから配信で見ても舞台セットが面白い!! と思える。エスカレーターのシーンでは配信カメラが上から撮り、終わってクリストファーが立ち上がれば、また配信カメラは横から撮るように戻ったりする。カメラの切り替えのうまさも相まって、いろんな視点をくるくる変えて、舞台という四角の床で最大限できることをしているのが面白い。

なにより、クリストファーという自閉症の子から見た世界を舞台で描いているのがすごい。

私は、小説は一人称視点を描けるメディアで、映画はなんだかんだ三人称視点しか描けないメディアだと思っている。いやこんなこと言ったら怒られそうだが。でも、たとえば映画で一人称を撮ろうとすると、どうしても混乱してしまう。「カメラにはうつってるけど、みんなには見えてない人物」みたいなものが登場する。なんだかフェアじゃなさを感じるじゃないか。でも小説は一人称視点に向いてる。だってそれを描き出す主体がそもそもモノローグだから。そう思っていたのだ。

しかし舞台って、そこにあるのは「主観的にそう見える世界」を作っているわけで。ええと伝わるかな、映像や写真は私たちの目に映るものをそのまんま映してるわけじゃないですか。あなたから見てもわたしから見ても同じように見える風景を映像や写真に収めてるわけで。でも、舞台や小説は、ある主観が必要とする情報のみを文章なり舞台なりに持ってくるでしょう。たとえば主人公と相手とダイニングテーブルが描写あるいは配置されてたら、そこは食卓って言える、でもそれは「それ以外の情報が不必要だ」という情報の取捨選択をしている。となると、主観的に、「その場で語り手に見えてるものだけ」を伝える表現媒体だよなーーと思って。何が言いたいかというと小説と舞台は私にとってすごく一人称の世界を伝えるのに向いてるメディアだなと思う、ということです。はい。

で、自閉症の子から見えてる世界を伝えるのにあたって、小説と舞台はすごく向いているなあと感じた。ともすれば観客が同情したり面倒だと思ったりしそうな場面でも、そうなってない。彼なりの論理があるのがわかるし、彼の視点で世界を見れる。それはとても豊かなことだし、上手いなあなるほどなあ、舞台ってこう使うのか、と納得したのだった。